
生活のために駆け引きをする(?)ベートーヴェンの、トムソンとの手紙の応酬が実に興味深い。
作品を生み出すことだけが作曲家の仕事でなく、楽譜の出版から販売経路を見出すところまでが仕事であったことを考えると、今でこそ楽聖ベートーヴェンと称されるも、決して高等遊民(?)というわけではなかった。
人間ベートーヴェンには自作に対する自信と、創造行為におけるプライドが間違いなくあった。
あなたのために作曲した62歌曲を落掌された由。9曲についてはリトルネッロと伴奏の変更を望まれるとのことですが、私は自作を書き換えないことにしています。・・・貴国の好みと貴国の演奏家の技術の低さについては私に言っていただきたかったわけですから、私の責任とはいえないのではないかと思います。しかし今回はご教示いただいたので、まったく新規に作曲し直しました。私があえて自分の考えに逆らうことを決めたのは私の本意ではありません。私の作品はあなたの曲集にだけ収められるのですから、私が断ればあなたの損害になり、ひいてはご配慮と出費を無にしてしまうと考えた次第です。
(1813年2月19日付、ジョージ・トムソン宛)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P899
何という気概と頑固なまでの強い意志。
当時、イギリスにはベートーヴェンの傑作たちを真面に演奏できる職業音楽家がいなかったこと、そして、ベートーヴェン作品が一般大衆には革新的で難解過ぎたという事実が二人のやりとりから明らかであることが面白い。
スコットランドには、それらの四重奏曲に加われる人が(プロを含めても)十数人もいませんし、3曲の第1ヴァイオリンを“まっとうに”演奏できる人は一人もいません。・・・あなたにしかできない雄大で独創的な曲を作ることは大変に喜ばしいことです。しかし、もう少し演奏しやすい曲、アマチュアでも演奏できるレヴェルのものが望まれます。そのような作品は音楽家にとって本当の宝物です。シンプルで表現豊かな曲はいつの世でも聴衆を魅了することでしょう。そして、演奏が困難な曲は放っておかれるでしょう。
(1813年9月、ジョージ・トムソンからベートーヴェン宛)
~同上書P900
ちなみに、「それらの四重奏曲」とは作品59のラズモフスキー四重奏曲を指すが、こういう交渉を通して、結果的にベートーヴェンは各国の民謡のアレンジの仕事を請け負うことになる。例えば、トムソンの要望で生み出された各国民謡の編曲などは、ベートーヴェン作品の中でも意外な(?)趣きを表すもので、音調の軽やかさ、文字通りポピュラリティを獲得するような歌が並ぶが、それでもさすがは楽聖ベートーヴェンだとうなる作品が多々ある。
大衆に口ずさまれる民謡が、何と愛らしく、また、何と哀愁を帯びて紡がれることか。ベートーヴェンにあって、大作が激減する時代の、いわばポピュラー音楽家ベートーヴェンの真骨頂(我が国大正時代の歌謡曲に匹敵する?)。否、こういう作品を要望に応えていとも容易く生み出せる術がベートーヴェンにはあり、それらを具に傾聴すればわかるように、一切の妥協なく、また駄作がないことが驚異的。中でも、インゲボルグ・シュプリンガーのメゾは僕好み。
おじゃまします。ここにご紹介のトムソンとベートーヴェンのやりとりの章を読んでみました。ベートーヴェンの作品にイギリスの民謡を編曲したものがあることは知っていましたが、その誕生の発端や経過、内容について知るのは初めてで、とても興味深かったです。ジョージ・トムソンの、故郷の民謡を自国の民に広めようという情熱と、ベートーヴェンの才能に寄せる尊敬と信頼に感銘を受けました。エジンバラとウィーンという遠く離れた街の間で、当時のひどい郵便事情を越えて、根気よく交わされた手紙や楽譜や代金を思うと、二人の音楽に懸ける思いの強さに打たれます。自国の人々の低い演奏技術に合わせて簡単な編曲にしてほしいと切に懇願するトムソンと、創作意欲の赴くままに作曲し、自分の芸術を貫こうとするベートーヴェン。一度はトムソンへの好意から、妥協して作曲し直すものの、結局は、そのような低い水準の曲を、高くもない代金のために作る時間は自分にはない、と切ってしまうベートーヴェン(バイオリンの演奏難度が高すぎるとこぼすシュパンツィヒに、「芸術の神に導かれている時にあなたの哀れなバイオリンのことなど考えるヒマはない!」と言い放ったというエピソードを思い出します)。始めは響き合い順調だった二人の間が次第にすれ違ってゆく手紙のやりとりにはとても切ないものを感じます。
ベートーヴェンがトムソンの依頼に応えて民謡の編曲に着手したのは、貴族からもらえるはずの年金の思惑が頓挫したことに起因すると考えられるそうですが、もし、純粋に生活のため、背に腹は替えられない状況なら、お金を得るために当然、相手の出す条件に従うだろう、と思うのです。ベートーヴェンの場合は、やはり自分の芸術が第一で、それを提供する対価としてお金を得る、という態度というか考え方だったように思われてなりません。
CDを聴いてみました。英語の歌は本当に英語にぴったりのメロディーに感じられ、言語の特徴がメロディーを作るのでは?と思いました。ベートーヴェンにとって、イギリスの旋律は新鮮で編曲も楽しかったのでは? 私たちはひょっとしたら「ロンドンデリーの歌」や「蛍の光」をベートーヴェンの編曲で楽しめていたかもしれなかったのですね。メゾソプラノのシュプリンガーさんの声は本当にステキでした。落ち着いていて信頼感があり、優しく受け入れてくれるお姉さんのようです。
ベートーヴェンの民謡編曲の世界を垣間見させてくださり、ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
大崎滋生さんの「再構築」を読みながら聴くベートーヴェンの「知られざる作品」は格別ですよね。
あの本は、何より「生きるベートーヴェン」の心理状況までもが読み取れる点が素晴らしい研究成果だと思います。
岡本 浩和 様
はい、岡本様のブログに導かれて少しずつでも読み進めることができて、ありがたいことこの上ありません。自分一人でしたら、積読になるところです。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくおねがいいたします。