プレスラー パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管 モーツァルト ピアノ協奏曲第27番K.595(2012.10.17Live)

僕はメナヘム・プレスラーの実演を2度聴けた。
最後になったであろう来日公演は直前にキャンセルになり、結局、3度目は叶わなかった。

庄司紗矢香とのリサイタル(何ともう10年も前のことだ!)は空前絶後の素晴らしさだった。言葉にならない感動を僕は得た。しかし、その3年後、期待に胸膨らませて参戦したリサイタルは、正直僕の心にはあまり響かなかった。おそらく彼の最晩年のクライマックスは2015年頃までだったのではないかと僕は思う。

身体能力の衰えによる技術的な衰えというだけではない。
音楽に尽力し、聴衆に奉仕せんとする公心というのか、そういう心が残念ながら減退していたのである。裏返せば孤高の、他を冠絶する老練の、と表現することも可能だ。しかし、少なくとも僕にとっては「残念ながら」と言わざるを得ない。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団とのモーツァルトを聴いた。
モーツァルト死の年の傑作ピアノ協奏曲変ロ長調K.595。
指揮者との掛け合わせ、溌溂たる姿勢、そして、時折見せる童心に還ったようなプレスラーの表情に、老大家自身も音楽を十分に堪能し、しかも聴衆へのサービス精神旺盛の心構えがはっきりと感じ取れる。ここには文字通り「音を楽しむ」巨匠による、モーツァルトの白鳥の歌の最高の形がある。

もちろん技術的な崩壊はない、危なっかしいところすらない。

パリはサル・プレイエルでのライヴ演奏。
第1楽章アレグロの神々しさ、否、実に人間的な温かみ。それこそキャリアの最終コーナーで老巨匠が獲得した無私の境地の反映のように思われる(慈しみの音楽といっても良いだろう)。あるいは、第2楽章ラルゲットの哀感、同時に静けさ。恍惚とした表情を浮かべ、音楽に没入する老ピアニストが美しい。そして、終楽章ロンド(アレグロ)の弾ける愉悦、というより、生きる希望の顕現。少なくともここでのプレスラーの奏でる音楽は実に生気に満ちる。(ほとんどフライングとも言うべき、男性の「ブラヴォ!」の声も何だか許せてしまうくらい)

ちなみに、終楽章ロンドの主題は、同年、歌曲「春への憧れ」K.596(詩はクリスティアン・アドルフ・オーヴァベック)に転用される。この年のうちにまさか命を落とすことになろうとは、モーツァルトも想像していなかったのだろう、音楽は無駄なものが一切省かれ、研ぎ澄まされた透明感を持つ。

上田敏の名詩を思った。

森は今、花さきみだれ
艶なりや、五月たちける。
神よ、擁護をたれたまへ、
あまりに幸のおほければ。

やがてぞ花は散りしぼみ、
艶なる時も過ぎにける。
神よ擁護をたれたまへ、
あまりにつらき災な來そ。

パウル・バルシュ「春」
山内義雄・矢野峰人編「上田敏全訳詩集」(岩波文庫)P72

四季折々、万物流転。モーツァルトの喜怒哀楽は、プレスラーのそれに同期する。

けふつくづくと眺むれば、
悲の色口にあり。
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲める。

秋風わたる靑木立
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。

オイゲン・クロアサン「秋」
~同上書P73

渾身の名演奏。

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