カラヤン指揮ウィーン・フィル ヴェルディ 歌劇「仮面舞踏会」(1989.1&2録音)

指揮者は痛み止めを注射しなければならなかった。指揮台へ向かいながら、彼はつぶやく。「指揮台で人が死ぬ様子を、君たちは眺めることができるよ。」ベルリン・フィルの楽団員たちはそれを待っていると、彼は確信していた。

私は音楽家というものを知っているし、この世のオーケストラのメンバーがいかに恩知らずなものかもわかっている。ベルリン・フィルはその恩知らずな点では最たるものだった。彼らはリハーサル、演奏会、ザルツブルクや数百万の利益を私から得たのに、彼らは決してただでは演奏しない。彼らは私の力が衰えたことを認めたくない、これからも何でも欲しいのだ。最も欲しいのは私の首だろう。
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P335

何という痛々しさ。疑心暗鬼もここまでくればどうにもならない。
いい加減にせよと言いたくなるほどだが、体力も気力も衰えた帝王にとっての最後の足掻きだと思えば、今となってはそれも許せるというものか。

しかし、その時はまだ来なかった。
カラヤンは翌年のザルツブルク音楽祭のために、1988年9月と10月に、ウィーン・フィルとともに《仮面舞踏会》の収録をする。

~同上書P335
※1989年1月と2月の間違いか?

カラヤン最後のオペラ録音となったヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」。その年のザルツブルク音楽祭の舞台(7月27日プレミエ上演)を待たずして(リハーサルはこなしたが)、1989年7月16日、日曜日の昼頃、彼は心臓発作で亡くなった(音楽祭の代役はサー・ゲオルク・ショルティ)。

心中穏やかならぬものを背負っての録音は、正直どこか重い。
まして体力的にも相当危うかった時期の録音であるゆえ、全盛期のキレに欠け、歌手たちの歌唱も指揮者の思念に引き摺られているかのようにも思われる。

・ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」
プラシド・ドミンゴ(テノール、リッカルド/グスターヴォ3世)
レオ・ヌッチ(バリトン、レナート/アンカーストレーム伯爵)
ジョセフィーン・バーストウ(ソプラノ、アメーリア)
フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ、ウルリーカ)
スミ・ジョー(ソプラノ、オスカル)
ジャン=リュック・シャイノー(バス、クリスティアーノ/水夫シルヴァーノ)
ゴラン・シミック(バス、ホーン伯爵/トム)
クルト・リドル(バス、リッビング伯爵/サムエル)
ヴォルフガング・ヴィッテ(テノール、判事)
アドルフ・トマシェック(テノール、アメーリアの召使)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1989.1&2録音)

しかしながら、そういう不安材料を差し引いたとしても、さすがに最晩年のカラヤンの棒は、崇高で、また音楽的だ(イタリア・オペラ的な明朗さとは縁遠いが)。

《仮面舞踏会》は〈リッカルドの愛〉〈反逆者の敵意〉〈アメーリアの祈り〉の3つの重要なテーマを中心に、いくつものモティーフが織り込まれており、音楽がひじょうに有機的に結び合わされて展開する。
スタンダード・オペラ鑑賞ブック②「イタリア・オペラ(下)」(音楽之友社)P131

納得。短い前奏曲を聴くだけで、カラヤンの流麗な、最美の音楽性を享受できよう。
例えば、第3幕第1場五重唱「ああ! きらびやかに、楽しい音楽に溢れ」(アメーリア、オスカル、レナート、サムエル、トム)が素晴らしい。

オスカル:
ああ!その輝きが、その音楽が
戸口からあふれ出してくる
そこにはたくさんの若い乙女たちが
花と集まって美しさを競う
たくさんの美女たちを育んでいるんだ
このうるわしい町は!
アメーリア:
そして私は自ら、惨めにも
無慈悲な紙片を
あの邪悪な壺から引いてしまったの
夫の怒りのために
あの気高いお方の
死が記された紙を

オペラ対訳プロジェクト

続く、第2場、(前奏曲の冒頭に現れる)リッカルドの愛のテーマに乗ってリッカルドが姿を現し、アリア「永久に君を失えば」での、ドミンゴの歌唱の人間味。(不思議に当時カラヤンの内面にあったであろう不信が同期するかのよう)

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