ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」(1979.11録音)

ベルナルト・ハイティンクの実演に2度触れたことがある。最初は、1997年のザルツブルク音楽祭でのマーラーの交響曲第9番、2回目は来日公演におけるブラームスの交響曲第1番をメインにしたプログラムだった。当時、僕はもっと印象の薄い、平板な演奏だろうと勝手に想像していたが、いずれも予想を上回る素晴らしい演奏だった。

ハイティンクには、計算がない。
それは悪く言えば、無味乾燥なものに陥る可能性があるということだ。しかし、それゆえに、ツボにはまれば途轍もない名演奏を生み出すことになる。

作曲家の思念や状況を一切考慮せず、ただひたすら音をリアルに描くことだけを考えての演奏は、いつどんなときも人々を感化する。戦争最中の、精神的に逼迫された中にあっても彼の筆致は揺らぐことなく、ただひたすら国民を鼓舞する音楽を書き綴った。しかし、ひとたび作曲家のペンから漏れ出れば、そこには一切の思念は届かない。傑作とは本来そういうものだ。

中庸の精神とはそういうことを言うのだろうと思う。

ショスタコーヴィチは想像を絶する特殊な事態の中にあっても、一瞬たりとも持前のしたたかな芸術家魂を失うことのない男だった。むしろ、自分をとり囲む状況が異常であればあるほどその魂は純化されたはずであり、ほかならぬその純粋さが思想や立場や環境を越えて人々を等しく感動させるところにこそ、この交響曲の偉大さがあるのではないのだろうか。
大木正純「ハイティンクのこの着実な歩み」
~「レコード芸術」1981年4月号P228-229

無理のない、楽譜に書かれたことを忠実に再現した音楽。
実際に、戦争という極限状況に置かれているわけではない、平和ボケをした僕たちにも(?)、魂を揺るがすような感動を与えてくれる交響曲が、誰の演奏よりも普遍的に聴こえるのだから不思議だ。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」(1941)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.11.12-14録音)

子どもの心は無垢だ。マクシムの回想には次のようにある。

僕はどうしてだか、リハーサルのことはちっとも覚えていないんです。でも初演の日のことは胸に焼きついています。《交響曲第7番》に完全に魅了され、心を揺さぶられてしまって。第1楽章の襲来のテーマ。避けることができない何か忌まわしいものの接近。その頃僕とガーリャには信心深いパーシャという子守りがいました。その晩この曲は僕の夢の中にも出てきて・・・遠くの方で聞こえていた太鼓が、だんだんと近づいてくる・・・どんどん大きく、大きく、大きく。僕は悪夢の恐ろしさに目を覚まして、パーシャのところへすっとんでいきました。するとパーシャは十字を切って、僕のために静かに祈ってくれたんです。それから、その初演の日にもらったチョコ菓子のおいしかったことも忘れられません。チェコレートにくるまれた柔らかいキャンディで、あんなおいしいチョコ菓子は初めてでした。
ミハイル・アールドフ編/田中泰子・監修「カスチョールの会」訳「わが父ショスタコーヴィチ 初めて語られる大作曲家の素顔」(音楽之友社)P20-21

恐怖と祈りと、その後の美味しい思い出!
ハイティンク指揮ロンドン・フィルの演奏に、マクシムのこの回想が重なる。文字通り、恐怖の第1楽章アレグレット―モデラートから祈りの第3楽章アダージョ―ラルゴを経て、美味しいチョコ菓子のような終楽章アレグロ・ノン・トロッポ―モデラート。

人気ブログランキング


1 COMMENT

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む