津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。
~夏目漱石「明暗(下)」(新潮文庫)P288-289
作家の逝去により途絶えたこの未完の作品は、読者の好奇心をやはり大いにくすぐって来た。本人はもちろん意図しないが、絶筆「明暗」の場合は、漱石の提示せんとした境地を解く鍵が辛うじて含まれたことにより未完ならではの完成度(?)を持つようになった。
かくの如くしてこの小説は未完の絶筆となってしまったのであるが、—我々は遺された現存の部分からだけでも、可成りの程度に漱石の意図していた根本テーマとその生きたる意義とをうかがい知ることを得るのは、不幸中の幸としなければならない。若し20回分のものが書き溜められていなかった場合を考えてみると、まさに津田が温泉地へ向おうとして列車に投じたところで全体の話が絶たれることになる。清子の姿の片鱗さえも登場しない仕舞いということになる。清子という女性の存在と性質と意義とについての知識を欠いたのでは、この小説全体が、読者に対して、生きものとなるべき核を欠いたに等しい仕儀となる。しかもこの小説の主題というよりも、それによって漱石が暗示しようと念願した境地を解く最後の鍵は、第176章以後の12回分の中にだけ含まれていることを思えば、我々は寧ろ運命の偶然ながらの好意に感謝せずにはいられないのである。
(中村草田男解説)
~同上書P296
まさに天の意思が働いているとしか思えない偶然。
創造とはそういうことなのだ。
トルソー作品の持つ危うさというか、未完であるがゆえの完成度に僕はつい惹かれる。
この世に完全なるものは存在しないと思うが、その意味と意義には、互いに補い合うことで完成に近づけるという天の意図がありそうだ。
対(つい)はまた対(つがい)であることの深さを思う。
創造者の、限られた時間の中での「自己闘争」という意味での未完の大作はブルックナーの交響曲第9番に止めを刺す。一方、創造者が何を思案したのか、途中放棄したものの中で最重要は、シューベルトの「未完成」交響曲だと僕は思う。人口に膾炙した作品だが、味わいは大いにある。心を無にして音楽に対峙すれば、必ず発見がある。
たぶん実演で聴けば、もっと直接心に届くのだと思う。
かれこれ20余年前にサントリーホールで聴いた同コンビによるシューベルトの大ハ長調交響曲を思う。
シューベルト:
・交響曲第8番ロ短調D759「未完成」
・交響曲第6番ハ長調D589
ジョス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナ交響楽団(1996.9.29-10.2録音)
激しいアタックとヴィブラートを排した軽快な音調が鮮烈で、度肝を抜く。
第1楽章アレグロ・モデラートの情動、また第2楽章アンダンテ・コン・モートの祈りが映える。
とはいえ、一層素晴らしいのが第6番ハ長調D589。第1楽章序奏アダージョ冒頭の強烈な咆哮が堪らない。第2楽章アンダンテの静かで愉悦に満ちる安息。第3楽章スケルツォが弾け、また熱い。そして、終楽章アレグロ・モデラートの堂々たる音調と流れる歌に僕は快哉を叫ぶ。
未完を埋めようと、後世の人々は挑戦する。
夏目漱石の場合は水村美苗がその役を担った。それは、相応にうまく作られた傑作である。
座敷は何時の間にか片附いていた。朝、絵端書を書く時に小机の間で使った座蒲団が、庭を正面に、座敷の真中に火鉢と共に整然と据えられている。津田は室に入ると後手に障子を締めるなり、其所へ行って胡坐を掻いた。真直視界に入って来た硝子戸の向うの築山は、今は既に午の光を受けていた。ほんのしばらく空けていただけなのに、何だか見慣れない所へ迷い込んだような気がした。
~水村美苗「続明暗」(ちくま文庫)P13
ただし、どれほど文体を真似ようと、本物ではないことは事実。言葉の持つ力そのものが明らかに違うのだ。
シューベルトの場合は、後の誰かが手を加える方法がもはやない。何も足さず、何も引かず。