グレン・グールド ザルツブルク・リサイタル1959(1959.8.25Live)

ハン・ファン・メーヘレンによる贋作事件の話題に始まる、グレン・グールドの「創造プロセスにおける贋造と模倣の問題」と題される講演は、実に刺激的だ。
グールドは言う。

創意の概念は創造プロセスにおける中道的な要素であって、この概念に関わるのが、装飾のプロセス、すでに存在する効果に対して、従来欠けていたもの、すなわち(より正確に言えば)従来必要と見なされていなかったものを少々増強するプロセスです。そして模倣と創意の関係は、緊密な調和を成します。模倣がなければ、つまり、以前の視点の入念な吸収がなされなければ、創意の考え方は根拠を失います。創意という拍車がかからなければ、補完と向上の願望―模倣の衝動、再配列の衝動―は、動機としての力を失うでしょう。
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P226

何においてもモデルというものが想定され、そこに新たな視点が加わることで革新が生まれるのだということだ。すべてはアウフヘーベン(止揚)の中にあり、それらは必ず調和、すなわち中道に向かう。
グレン・グールドが、まだコンサート活動に勤しんでいた頃の記録、1959年のザルツブルク音楽祭の実況録音は、いつ聴いても感動的だ。ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの「幻想曲」の、静かな祈りに僕は思わずため息をつく。バッハを髣髴とさせる(グールドの好む)対位法的躍動が美しい。
そして、文字通り「古い秩序へのアンチテーゼ」として生まれたシェーンベルクの方法が、いかに後期ルネサンス期の作品と連関するものかをグールドは自らの演奏で証明する。古典様式への回帰を示すピアノ組曲での、ペダルの抑制された、アタックの強力な、いつものグレン・グールドの演奏は、計算ではなく、むしろ大自然の意志の発露でありことを思う。

一層素晴らしいのがモーツァルトのソナタハ長調K.330(個性的でありながら、過ぎないグールドが完璧。ライヴならではの多少の瑕も愛嬌)。録音では、斜に構えた、故意の作為を見せて、醜態を晒した(?)グールドの、いかにもグールドらしい名演奏。可憐で快活な第1楽章アレグロ・モデラートから見事だが、ことに瞑想する第2楽章アンダンテ・カンタービレが出色。

けれども、創造的な人物がとる創意の態度や能力にもかかわらず、創意の行為と模倣の行為との差異は、歳月を経るうちに、どちらかといえば些末なものと思われるようになりがちです。これは、音楽において特に当てはまるかもしれません。音楽では、まさしくその抽象性ゆえに、有機的に堅固であることは模倣を本質としているからです。その抽象性ゆえに、音楽はほかのどんな芸術よりも有機的な方法論に依拠します。これはいつの時代にも言えることですが、分裂的な変革の時代には特に当てはまるのです。後期ルネサンスあるいは今世紀初頭の数年間のように、大きな歴史的転換の起こる時代にあっては、音楽秩序の新しい概念が不確かなものであるがゆえに、古い秩序に対するアンチテーゼとして起こる反発は、特別に制度化され、実質的な秩序に生まれ変わる傾向があります。偶然ではありません。そういう時代には、そしてほとんどいつの時代もそうですが、作品内部での模倣の発想が技能の主たる規範と決まります。私たちの時代でこれがみられるのは、シェーンベルクの十二音技法とその後継者たちの音列的処理です。これらの基本的な概念は、模倣の処理をしつつ、素材の断片的な核を音楽構造全体を保証する方向に促そうという試みにあります。そうした瞬間における結束作用がもっぱら依存するのは、模倣の能力です。
~同上書P226-227

思考の鎧を完全に脱ぎ去ることが無理ならば、むしろその鎧すら楽しめとグールドは言うのである。何事も遊びであり、また道楽だ。

グレン・グールド ザルツブルク・リサイタル
・スウェーリンク:幻想曲ニ長調
・シェーンベルク:ピアノ組曲作品25
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330(300h)
・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
グレン・グールド(ピアノ)(1959.8.25Live)

モーツァルテウムでのライヴ録音。プログラムの進行と共に聴衆の拍手は熱を帯びる。
幾度か記事にする「ゴルトベルク変奏曲」についてはもはや何も言うことはない。これほど生命宿る、推進力豊かな演奏を僕はほかに聴いたことがない。冒頭アリアの簡潔でありながら哀愁に富む音楽表現はグールドならでは(おそらく当時の聴衆は誰もがグールドの「ゴルトベルク変奏曲」を聴きたかったのだろう)。変奏の後半を聴きたまえ。すべてが何と心躍る音楽であることか。

スウェーリンクもシェーンベルクも、そしてモーツァルトも、一聴グレン・グールドだと分かる独特の解釈。それは、1955年のメジャー・デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」ですでに獲得していた方法であり、その方法の模倣からグールドの「すべて」が始まったのだと言えまいか。その意味で、1959年の実演の「ゴルトベルク変奏曲」は、一世を風靡したあの録音を超えようと躍起になるグールドの姿を明確に捉えているように僕は思う。

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4 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。このCDを聴いてみました。スウェーリンクは、現代音楽の作曲家がルネッサンス期の様式やメロディーを真似て作った曲かと思いました。ルネッサンス期のオルガニストだったとは知りませんでした。モーツアルトは聞き慣れて少し陳腐化していた曲が、ぐっと新鮮で魅力に満ちた曲に聞こえました。グールドが高く評価しているシェーンベルクの音楽はどうしても私の耳から入って来ず残念です。「ゴルトベルク変奏曲」はあのCD録音から4年経っているのですね。CDの演奏がおとなしく思えるほど生き生きとしていて魅力的に感じました。それは熱狂する聴衆を前にした時の高揚感から来るのでしょうか、それとも、グールドが「最初の録音に満足しているわけではない。」と言っているようなので、少し進化した形なのでしょうか。即興的にああなったのでしょうか。いずれにしてもあの場にいた人々は、目の前で歴史的な演奏が繰り広げられていることに気がついて唖然愕然とし、息を詰めて聴いていたのではないでしょうか。ライブで咳も咳払いも聞かれない静かな会場は初めてです。ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

すべての作品が生き生きと再現されて、とても60年以上前のものとは思えない録音であり、また演奏だと思います。音楽が密室のものではなく、あくまで聴衆あっての相互コミュニケーションの上に成り立っているものなんだと心底思います。類まれな天才的テクニックあってのグールドですが、彼の即興性も半端ないものだと思います。

こういうライヴ録音を聴くにつけ、グールドはやっぱりコンサート活動を止めるべきではなかったのではと思ってしまうのです。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 ありがとうございます。 本当に惜しいことだと思ってしまいますね。
でも完璧主義で神経過敏なグールドにとっては、会場の雑音とか人前に晒されること、楽器の移動に関するリスク、旅のストレス、コンサート開催者やスタッフとの面倒な交渉等、苦痛を感じるマイナス面の方が大きかったのですね。多くの有名になる演奏者はそれらを乗り越えて活動をしているのだと思いますが、グールドはそれをしなくてもその唯一無二の演奏でその名を普及のものにできたからコンサート活動をやめられた、ということでしょうか。それともグールドにとってライブ活動の苦痛は到底耐えることのできないものになっていったのでしょうか。グールドの、演奏中自然に発せられる唸り声とかピアノや椅子へのこだわり等を思うと、自閉症的なものを感じます。それだからこそあのように非凡な演奏が可能だったのではないか、と考えてしまいます。ぐだぐだとまたすみませんでした。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

人の行動にはそれぞれ理由がありますよね。
あれだけの録音を残せたのは、コンサート活動を止めたからだともいえます。
その意味では良かったのだと心から思います。

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