オッフェンバックの「ホフマン物語」に関しては、個人的に第3幕以降にシンパシーを覚える。特に、ミラクル、クレスペル、そしてホフマンの男声3人による三重唱「激しい不安と恐怖で」は、地味ながらとても効果的で、その後に続く、アントーニアの登場シーンから彼女の熱を帯びた歌が一層生き(ルートヴィヒによるアントーニアの母!!)、このあたりのドラマの緊迫ぶりは、実に興奮の極みなのである。
エディタ・グルベローヴァがオリンピア、アントーニア、ジュリエッタの3役を一人でこなした小澤征爾指揮フランス国立管弦楽団による録音が素晴らしい。
何よりジャック・オッフェンバックの音楽が良い。ホフマンの幻想、妄想、怪奇世界を、敬愛するモーツァルトさながら(E.T.A.ホフマンもオッフェンバックもモーツァルティアンであった)、可憐で美しい音楽で飾るのだから当然と言えば当然で、それにしても作曲家が完成を待たずして亡くなったことは痛恨事だ。ただし、未完成ゆえ、後年の識者の努力による様々な版の存在が、むしろオッフェンバックの音楽の素晴らしさを堪能する喜びに代替されるのだから、聴き手としてはこれほど楽しいことはない。
第4幕冒頭、有名な「ホフマンの舟歌」(美しい夜、恋の夜)は、短い二重唱だが、幻想的かつ小さな官能極み。ここでのグルベローヴァとクラウディア・エーダーの歌唱は実に人間的で、舞台裏のハミングの合唱が加わり、ますます美しさを増す。
ステラは、オランピア、アントーニア、ジュリエッタという3つの魂を持つ存在である。夢か現か、ホフマンは幻想と現実の間を行き来する。彼は、いわばθ波状態なのである。第2幕の主人公は、物理学者スパランザーニの娘オランピアだ。彼女は自動人形だった。また、第3幕は、クレルペルの娘、病弱で神経質なアントーニアは、歌うと体がもたない。彼女は激しく歌い、結果、死を迎える。
エピローグたる第5幕の凝縮された現実の儚さと、それゆえの希望。
酒場の隣の劇場でかけられているのは《ドン・ジョヴァンニ》。色魔ドン・ファンの堕落を追想しながら、ステラに捨てられたホフマンは夢見心地に、ミューズに戻ったニクラウス(エーダー)の言葉を聴く。
恋によって人は偉大になり、涙によってもっと偉大になる。
すべてが自分の想い通りにはなるまいと。そして、失恋こそが成長の最大の鍵なのだと。この音盤でも、フィナーレのアンサンブル(ステラ、ホフマン、リンドルフ、合唱)が聴きもの。「過去は終わり、未来は我らのもの」というフレーズに僕は感動し、勇気をいただく。ドミンゴのホフマンは意外にそこそこ。