カラヤン指揮ベルリン・フィル シベリウス 交響曲第6番(1980.11録音)ほか

第5番の堂々たる祝祭的ドラマと違い、柔らかく、しなやかな性格の第6番は純粋に牧歌的だ。第6番は、交響曲という衣をまとった一編の詩である。全体の雰囲気は静穏で、フィンランドの晩夏のような光輝を仄かに放っている。
(初演に触れた評論家カティラの評)
神部智著「作曲家◎人と作品シリーズ シベリウス」(音楽之友社)P174

カラヤンがベルリン・フィルを振ったシベリウスの再録盤は、良くも悪くもカラヤンらしい、オーケストラの機能性が存分に発揮された美演だ。中でも、大宇宙の綺羅星の如くの交響曲第6番は、カラヤンらしく、そして、初演時にカティラが体験したように、実に「静けさ」を前面に押し出した名演奏だと僕は思う。

カラヤンは、もしかすると、ベルリン・フィルハーモニーに長居しすぎた。ベルリン・フィルハーモニーというまことにドイツ的なオーケストラの色に、カラヤンほどの意識的な音楽家でも、結局はそまってしまったとは考えられないであろうか。指揮者といえども、ひとりの人間である。指揮する人間が、気づかぬうちに、指揮される人間の集団の体臭にそまるということも、まんざら考えられなくはない。カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーをみずからのもとめるオーケストラにしたとしばしばいわれるが、真実は逆かもしれない。ベルリン・フィルハーモニーは、時間をかけて、カラヤンを自分たちがもとめる指揮者にしたとはいえないか。
(黒田恭一「カラヤンは、いま、どこにいるか―最近の新録音をめぐって」
~「レコード芸術」1981年10月号P273

黒田恭一さんの、当時の鋭い読みに納得した。
その後のカラヤンの、(ザビーネ・マイヤー事件に端を発する)ベルリン・フィルとの決裂のことを考えるにつけ、黒田さんの指摘はその通りだったのではないかと思えてならない。

シベリウス:
・交響曲第1番ホ短調作品39(1981.1.2録音)
・交響曲第6番ニ長調作品104(1980.11.16-20録音)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

たとえ(オーケストラに対して)求心力を失ったカラヤンであったとしても、僕はカラヤンのシベリウス第6番を推す。研ぎ澄まされた外面は、効果的であるばかりでなく、音楽的で、シベリウスの思念を見事に表現しているからだ。

一方、カラヤン初録音となった第1番ホ短調は、整理整頓され、時に激烈な音像を結ぶ演奏であるものの、どうにも無機的な印象を抱かざるを得ない(特にティンパニの派手な轟音が何とも無機質)。確かに効果的なのだが、何かが足りない。そんなシベリウスだと僕は思った。
ちなみに、本邦初登場の際、「レコード芸術」誌新譜月評にて小石忠男さんが第1番について次のように評されていた。

ここでのベルリン・フィルの鮮やかな技巧も舌を巻くほどである。ただし、ここでは都会的な洗練はあっても、シベリウスの音楽の北欧的な民族性は、さほど感じられない。
~「レコード芸術」1981年12月号P93

「なるほど!」と、あらためて僕は膝を打った。

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