クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管 ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1970.6.30Live)(Blu-ray Disc)

ものを言うときに、いかなる摩擦も恐れない率直さは、彼の演奏の解釈にもあらわれている。クレンペラーは演奏するとき、美しく見せかけるためのいかなる化粧もほどこさない。彼の場合すべては、明白で、透明で、この上なく率直だ。
ルーペルト・シェトレ著/喜多尾道冬訳「指揮台の神々—世紀の大指揮者列伝」(音楽之友社)P210-211

クレンペラーの最晩年の、身体が自在にコントロールできなくなったときの演奏は、何にも増して明白で、透明で、率直だ。

この火傷から回復するのに約1年もかかったが、その間カラヤンとレッグのあいだにいさかいが生じ、カラヤンは競争相手のデッカとドイツ・グラモフォンに移籍してしまう。がっかりしたレッグは直ちに対抗措置をとる。クレンペラーはいまなおベッドに横たわったままだったが、1959年8月に、クレンペラーと終身のレコード録音契約を結んだ。すると長患いがあっというまに回復した。それから何年にもわたってフィルハーモニア管弦楽団による無数の録音が行なわれ、このオーケストラとクレンペラーとは切っても切れぬ関係を維持するようになる。
~同上書P206-207

こういう経緯であるにもかかわらず、結果的に晩年のクレンペラーのEMIへの録音はどれもが驚異的な質を保っているのだから、すべては不幸中の幸いだったといえる。

高齢のクレンペラーのような指揮者に対しては、オーケストラの楽員はかつてオーラを発した偉大な人物への尊敬の念から、全力を傾けて演奏する。それはかつてのオーラの脱け殻かもしれないのだが。しかしひとつの問いは残る。偉大な指揮者が目の前にいるという圧倒的な存在感だけで、なぜオーケストラがかくもまったく別のひびきを出せるのかという疑問が。これは並みの指揮者が逆立ちしても追いつけぬわざだ。オーラの放射が「指揮」とどう関係しているのか。そこに「指揮」の意味の謎を解く鍵があるように思われてならない。クレンペラーの最盛期には、並はずれた人格の持ち主に内在する力が、身体上のひどい不自由を充分埋め合わせてあまりあるということも明らかになった。彼はその人格の精神的な威厳のみが、楽員たちに最高の演奏をさせることができるとわかっていた。
~同上書P212

なるほど、最晩年に収録されたロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのベートーヴェン・ツィクルスにある指揮者の神々しいオーラは、まさにオーケストラの魂を鷲づかみにし、唯一無二の崇高なる音楽を自ずと奏でる。遅々とした、分厚い音楽が、固唾を飲んで聴く聴衆に歓喜をもたらす。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
テレサ・ツィリス=ガラ(ソプラノ)
ジャネット・ベイカー(メゾソプラノ)
ジョージ・シャーリー(テノール)
テオ・アダム(バリトン)
ニュー・フィルハーモニア合唱団
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.6.30Live)

ベートーヴェンの革新は、200年後のオーケストラにも対応できる、否、むしろ未来の分厚い機能的なオーケストラであるがゆえの必然的な「音」が奏でられる音楽を、耳疾の中、敢然と書き上げたことだと僕は思う。確かに、ベートーヴェンの時代の奏法を駆使しての、時代考証的な演奏も悪くはない。しかしながら、中でも《第九》はこうでなければならぬ。
楽章が進むにつれて高揚する様。終楽章コーダの、圧倒的な集中力とこれ以上ない堂々たる響きに、終演後、聴衆は歓喜する。わずかに記録される怒涛の拍手の中で、聴衆の総立ちになる姿が目撃されるが、それはまさに「人類皆大歓喜」の瞬間のスナップショットだ。

この人には、非現実的というのではないが、相対的な日常性の世界とは次元のちがう、超絶的な世界—あるいはあのバッハからベートーヴェンにいたる、そうしてヴァーグナー、ブラームスからブルックナー、マーラーにおいても、なおその余映を充分に残しているドイツ・オーストリア音楽に独特の、まったくそれ自体で独立した、内面の深くて充溢した世界といえばよいか—、そういう世界に根ざし、そこから生まれてくるものと不断に接触している人間だけがもっているような、一種の時代ばなれした雰囲気が漂っているのである。
「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P63

吉田秀和さんの言う、「時代ばなれ」、「非現実的」という言葉が心に沁みる。
それこそオットー・クレンペラーの魔法なり。

最後のリハーサルの日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールの外ではチケットを求める人々が徹夜で座り込んでいた。私が生涯でそのような光景を見たことは、このとき以外に一度しかない。そしてコンサート当日、ホールのなかには人々の期待によって醸し出される独特の雰囲気が濃厚に漂っていた。このようなコンサートは二度と体験することができないことを、聴衆は知っていた。
(ジョン・トランスキー/川嶋文丸訳)
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