ピエール・モントゥー晩年のベートーヴェン交響曲第1番&第2番ほかを聴いて思ふ

beethoven_symphonies_monteux_london_symphony071ベートーヴェンがかの「ハイリゲンシュタットの遺書」と時を同じくして生み出した奇蹟の作品に表出されるこの若々しさは、指揮者の年輪を刻んだ晩年であるがゆえのもの。他を圧倒する前進性と高揚感。
興味深いのは、ベートーヴェンが人生の節目において性格の異なる作品をほぼ同時に書き上げる習慣を持っていたことと、それらがその外見に比して、内面がほぼ逆の性質を持つことであり、ピエール・モントゥーも意識的なのか無意識なのか、それはわからないけれど、そのあたりを非常にうまく読み取って実際の演奏に反映させたところ。

すなわち、遺書前後に創作されたハ短調協奏曲とニ長調交響曲の性格の相反する妙。
少なくともベートーヴェンの苦悩の表現形態であるハ短調という調性を持つ協奏曲が、クラウディオ・アラウの晩年の演奏に代表されるような「明朗さ」を持つのに対して、希望の光ともういうべきかのニ長調交響曲に実に不穏な音調が感じ取れるのは、モントゥーの老練の技と為すところであると思うのだ。

第1楽章序奏アダージョ・モルトの暗澹たる響きは不安の象徴なのか。続く主部アレグロ・コン・ブリオにおいてもやはり未来への希望をモントゥーはあえて見せない。
そして、一見朗々たる第2楽章ラルゲットの美しい旋律に、つまり、例のGCDE♭という音型にベートーヴェンが人生の儚さを投影させたのではないのかと思わせる解釈・・・。
とはいえ、力強い第3楽章スケルツォでようやくすべてが解放され、強烈な光の波動によってすべてが包み込まれる妙。終楽章アレグロ・モルトにおける中庸の響きとほとんど達観ともいうべき自然体の音楽。ニ長調交響曲にそんなことを感じたのは初めてかも。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1960.4.20-24録音)
・交響曲第2番ニ長調作品36(1960.5.9-10録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72c(1960.5.9-10録音)
・劇音楽「エグモント」作品84-序曲(1959.5.23-27録音)
・劇音楽「シュテファン王」作品117-序曲(1960.5.9-10録音)
ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団

なるほど、ベートーヴェンが遺書以降、少なくとも創作面においては崇高な境地にあったことは間違いない。
ピエール・モントゥーによる「フィデリオ」序曲の、何という躍動美と内面的深み。冒頭主題の勢いと、続く木管による応答部分の安寧の音楽に、この時期の楽聖が極めて安定した境地にあったことを知る。
「エグモント」序曲も、また「シュテファン王」序曲もあまりに美しく、思わず聴き惚れた。実に素晴らしく生々しい名演奏。

ちなみに、ハ長調交響曲における、ウィーン・フィル特有のまろやかな響きに、モントゥーが刻み込んだ未来への希望が見事に表出され、ここに何とも不思議な老練の安定感を感じるのは、やはり百戦錬磨の巨匠による棒だからなのだろう。
何より指揮者の楽聖に対する「愛」に満ち溢れた至高の演奏が収録された1枚。泣く子も黙る超推薦盤。

 

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