朝比奈隆は1940年1月31日、新交響楽団を指揮してプロ・デビューを果たした。曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番他。そして、生涯最後の名古屋での演奏会(2001年10月24日)の曲目も奇しくもチャイコフスキーの同曲。
初演時、専門家からは「チャイコフスキーは枯渇した」と酷評され、チャイコフスキー自身も「大袈裟に飾った色彩がある」と自らを諌めたこの名作が朝比奈隆のある意味「十八番」であったことが興味深い。とはいえ、晩年にはそれほど頻繁には採り上げられなかった。それゆえかどうなのか、僕は朝比奈隆のチャイコフスキー第5番の実演に触れる機会を逸している。僕の人生の痛恨事のひとつである。
手元に2002年12月に大阪フィルハーモニー協会より発行された「朝比奈隆追悼文集」がある(当時、僕も拙い文章を寄稿させていただいた)。何より貴重なのは例の最後の演奏会におけるチャイコフスキーの演奏を収録したCDが付録であること。最後の演奏会の様子は当時あらゆるメディアで語られており、ここで細かいことを言及することは避けるが、その場にいない僕でもその壮絶な演奏シーンがリアルに想像され、胸が詰まる想いに駆られたものだ。楽員は皆泣きながら必死で演奏したのだとか。終了直後の怒涛のような拍手喝采も尋常でない(おそらくいっしょに号泣する聴衆もいたのだろう)。ともかく思わず涙が込み上げるほどで、まったく冷静に聴いていられないのだ。
僕はこの音盤にかつてたった1度だけ真剣に対峙した。
朝比奈隆の演奏スタイルは、晩年になるにつれ速めのテンポの颯爽とした若々しいものに変わっていったが、そういうものとは一切かけ離れ、第1楽章冒頭から音楽は極めて遅く重い。楽章が進んでも一向にドライブはかからず、最後までその調子で音楽が流れる。孤高の境地と言えば聞こえは良いがさにあらず。この時、ほとんど意識朦朧とした朝比奈隆は真面に棒を振っておらず、コンサートマスターの梅沢和人さんの先導でオーケストラ自身が自発的に音楽を奏でたのだと。
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(2001.10.24Live)
しかし、この演奏の一種異様な「透明感」に僕は心底惚れる。指揮者とオーケストラと、そして会場の聴衆がいっしょになって奏でたチャイコフスキー。10数年ぶりに久しぶりに耳にして、この音楽がいかに「愛に溢れるものか」を再確認した。もはやこれ以上言葉にして語るまい・・・。いや、そもそも「言葉」がない。
晩年、とても指揮が出来るようには見受けられない様子で練習場に現れた先生は、楽団員の練習の音を聞き、会話を交わすうちに顔には生気が蘇り、足を踏み鳴らすほどの元気が出て来て確かな足取りで指揮台に向かわれました。決して椅子を使わない強情なまでの信念を押し通し、自分で蝶ネクタイを結び、靴紐を固く締めた本番前の儀式も最後まで守られました。
~「追悼文集」の小野寺昭爾氏による編集後記より抜粋
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私は、朝比奈さんのブラームス・ツィクルスでは、交響曲第3番、ピアノ協奏曲第2番を聴き逃してしまったことを後悔しています。インターネットでダメだったにせよ、当日売りなどでもいいから行くべきだったと思いました。その意味でも残念でした。
>畑山千恵子様
1990年の新日フィルとのツィクルスですか?あの時はネットはまだなかったと思いますが?それとも96年の在京4楽団とのツィクルスでしょうか?
2001年のブラームス・ツィクルスのことです。
>畑山千恵子様
はいはい、そうでした!亡くなる年にありました!あのツィクルスも最高でした。
[…] ちなみに、最後のチャイコフスキーの音源は、翌年に出された追悼文集の付録になっているが、オーケストラが渾身の力で指揮者をフォローし、最後の大団円に至るまで集中力を以て演 […]