我々が互いにとって何であるか、これに贅言を費やす必要はありますまい。君ほど私のことをよく解してくれるひとは他に知りません。私もまた君の心の奥底にまで分け入って、ことをよくわきまえていると思います。ここにあなたの奥様にご所望の写真をお送りします。お二人に心からお別れを申し上げます。5月にはまたお会いできることを期待しております。
(1907年12月、マーラーからブルーノ・ワルター宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P339
ウィーン国立歌劇場を去ったマーラーからの手紙にワルターは何を思うのか。
人生の、また音楽の師と仰いだ天才との別れにワルターは愕然としたという。
かつて若きブルーノ・ワルターに、マーラーは次のような言葉を送っている。
ここの評論家が言うことほど無意味なものはない。彼らは白痴の集まりだ。新顔には猟犬のように噛みつき、しばらくはうなり、そして何年かすると君は「我らがワルター」になっているよ。
(1901年)
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P81
マーラーの先見、というよりワルターの優れた才能である。
ワルターの長きにわたる録音歴のどの時代を切り取っても、実にワルターらしい、慈しみと勇気に溢れた音楽が響くのがわかるだろう。何より師グスタフ・マーラーの作品を指揮するときのワルターの慈眼と慧眼に満ちる解釈。思い入れ抜きにしてすべてが美しく、そして優しい。
十八番のマーラー第1番は、ワルターらしい慈愛を尽くした演奏である。
後年のコロンビア響とのステレオ盤があれば不要だという見方もあるが、しかし、モノラルの、鈍い、曇った録音からも老ワルターの俗世的青春の思い出が読みとれる。中でも第3楽章(俗物根性!)から終楽章(何というドラマ!)へと流れる音楽の内なる詩情に感無量(金切り声を上げるように、大袈裟に音をアピールすれば良いのだと言わんばかりの演奏が多い中で、何という抑制された慈しみか)。僕は、舞台裏からの第1楽章の主題回帰の箇所で思わず震えた。何という愛おしさ!それにしても、第1楽章冒頭から垣間見える憧憬と、師への尊敬の想いがこれほどに刻印される演奏はブルーノ・ワルター以外にない。
大自然は歌う。まさにそのことに同調するようにワルターのマーラーも歌う。