アルゲリッチ アバド指揮ベルリン・フィル プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番ほか(1967.5&6録音)

彼女の演奏は、恐ろしく個性的でありながら、聴く者に、その個性のなかに閉じ込められたような息苦しさを感じさせることはない。それどころか、われわれは、彼女の演奏を通して、音楽そのもののなかに解放されたような快感を覚えるのである。極度の集中と解放とのこのような結びつきは、まことに無類のものであると言っていい。
(粟津則雄「極度の集中と解放が生み出す音楽の喜び」)
よみうりカラームックシリーズ「ピアノ&ピアニスト」(読売新聞社)P24-25

もはや30年前のエッセイではあるが、マルタ・アルゲリッチにまつわる粟津さんの論は実に的を射ていると思う。「極度の集中と解放」の典型は、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルをバックに録音したラヴェルの協奏曲だ。若きアルゲリッチのピアノが咆える。第1楽章アレグラメンテの集中、そして第2楽章アダージョ・アッサイでの解放、さらには終楽章プレストでの集中と解放の掛け算よ。作品全体の集中と解放のドラマは、各楽章についてもフラクタルのように機能する。どの瞬間も呼吸深く、文字通り集中と解放が小刻みに揺れ動くのだ。

・プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26
・ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1967.5&6録音)

本来アルゲリッチはライブの人だ。
プロコフィエフの第3番ハ長調も、もちろんラヴェルのト長調も何度か耳にした実演の色彩とスリルには到底敵わない(録音は残念ながらどこか余所行きの、今一つ踏み込みの欠ける印象が否めない)。ただし、プロコフィエフの場合にも、(この録音の中で)集中と解放の連続が随所に確認され、他を冠絶する、ピアニストとしてのアルゲリッチの天才を垣間見ることができる。

アルゲリッチは「努力の仕方を知っているのが天才」だと語っているが、それは彼女自身のことでもあるのだと思う。作品に納得がいかなければ録音には残さない。ましてやコンサートやリサイタルのプログラムに載せることもない。そんな彼女もプロコフィエフの第3番については相当の自信があるのだろう、音楽は縦横に駆け、伸縮自在、ダイナミクスも幅広ながら理に適っている。そして何より音楽そのものに筆舌に尽くしがたい幸福感が漂うのである。これぞ「音楽の喜び」とでもいうべき表現に満ちているのだ。

僕は長らく彼女の実演に触れていない。
齢80を超えたマルタ・アルゲリッチの老練のピアノに久しぶりに直に触れてみたいものだ。

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