
大自然の中にあって、そしてまた人との対話の中にあって、自らを常に省みることが大切だ。それは、動の中に静を見出すということ。
鎮魂曲は、文字通り僕たちの心を、そして魂を癒す。
ただし、それはガブリエル・フォーレの挑戦、あるいは実験のように、「怒りの日」を除き、代わりに「リベラ・メ」と「イン・パラディスム」を追加するという構成によるものであるがゆえに余計に身に沁みるのである。
死は決して恐れるものではないだろう。
生の一環たる死は必然であり、そこにはまた魂の成長を保証する、そして促進する何かがある。
寡作家モーリス・デュリュフレのレクイエム作品9。
初めて聴いたとき、フォーレのそれに優るとも劣らぬ静謐さと、厳粛で清澄な音調に僕はとても感動したものだ。そして、いつぞや久しぶりに聴いたときも、再びの感激に思わず感想を綴った。それから6年余りが経過して、静寂の夜更けの中で、独り静かにその音に触れたとき、僕はまた身震いした。あのときの感覚と概ね同じ。
言葉にならない。というか、言葉は不要。
空(くう)の中で、ただひたすら音の流れに身を沈めるのみ。
終わりは、恐れるものではなく、待ち焦がれるもののような気がする。
30年近くの時を経ても、いまだ燦然と輝く名演奏だと思う。