日比谷公園の中心で愛を叫ぶ

「愛の論理」を久々に取り出して読む。10余年前にベストセラーとなった「生きがいの創造」の著者である飯田史彦氏の何冊目かの書籍である。人類史上において数多の著名人が「愛」について語ったり書いたりした言葉から「愛の論理」が考察されている。

現在のようなシステム(資本主義社会)のもとで、人を愛することのできる人は、当然、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛は所詮二次的な現象である。それは、多くの職業が、人を愛する姿勢を許容しないからではなく、むしろ、生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が社会を支配しているために、非同調者だけがそれに対してうまく身を守ることができるからである。したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそがいかに生きるべきかという問題に対する唯一の理にかなった答えである、と考えている人々は、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、愛が、極めて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。
人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。単に利益を分配するだけではなく、経験や仕事も分配できるようにしなければいけない。人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会を作り上げなければならない。
『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著)

多分にマルクス主義の影響を受けているような理論だが、確かにその通りだと思う。言い得ている。「愛」を語るのは困難だ。言葉にすること自体がナンセンスなのかもしれない。結局、自己と他が一つだという認識を体感的に持てるかどうかが鍵になると僕は思う。

ところで、今日1月31日は「愛妻の日」らしい。日比谷公園ではサラリーマン諸氏が特設ステージ上で「妻の名前」または「妻への感謝の言葉・愛の言葉」を大声で叫ぶというパフォーマンスが催されたらしい。ニュース映像を見ている限りでは常日頃妻に対して「愛している」などという言葉はほとんどかけない人が多いようだ。
残念ながら、恋人や夫婦といえども、人と人とは分離されている。ゆえに「言葉」を通してでないとお互いの感情や思考を伝え合うことは難しい。「想い」くらい素直に毎日伝えればいいのに、と僕は思う。

マーラー:交響曲第9番ニ長調
レナード・バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

「別れ」、「死」、そして「再生」が音化されたグスタフ・マーラー畢生の大作。特に両端楽章は身も心もさらわれるほど「震撼」を覚える傑作である。 1909年夏に作曲されており、譜面には妻アルマへの呼びかけが随所随所に書き込まれている。例えば、第1楽章の最後には、「おお若き日々よ!」、「過ぎ去ったものよ!」、「おお愛よ!」、「消えてしまったものよ!」・・・など、そして第4楽章では「さようなら!」という言葉が何度も書かれている。ひょっとすると、この第9交響曲は作曲者自身のこの世への「告別」の意味ではなく妻への「別れ」の悲しみを単に表現しているとても人間的な楽曲なのだ、とも考えられる。

⇒旧ブログへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む