最晩年のオットー・クレンペラーの、諦念にも似たすべてを包み込む思念が美しい。
ぼくは、じつは不協和音も協和音も存在しないというシェーンベルクの偉大な教えに従っている。ときにはド・ミ♭・ミ・ソの響きがとてもいいし、ときにはまっさらな三和音のほうがいい。だからロンドンで聴いたシュトックハウゼンには大きな感銘を受けた。もっとも指揮をしたのはブーレーズだったんだがね。バッハの異様に無調な音楽も筆舌に尽くしがたいほど美しい。まわりの言うことをしなくていいというのが、ぼくらに残された唯一の特権だ。1961年からたくさん作曲していて、交響曲も弦楽四重奏曲も書いたし、オペラも一作つくった。なにかの折に会えることがあったら、ぜんぶ見せてあげる。死後の名声がなんだっていうんだ?
(1969年5月21日付、イルゼ・フロム=ミヒャエルスへの手紙)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P208
形式などどうでも良いと、老大家は言う。音楽の是非は美しいかそうでないか、人に感動を与えられるかそうでないかだと。
初めて聴いたときはそのあまりの大仰さぶりに正直呆れた。重戦車のようなバッハに少々辟易した。しかしながら、時を経て、年齢を重ねて、あらためて耳にしたとき、バッハの小宇宙が後世のすべての作曲家の方法を飲み込んで、未来のバッハへと生まれ変わったような、そんな新鮮さを僕は覚えた。
第3番ニ長調BWV1068など、聴きようによってはロマン派の大交響曲のようだ。ここまで堂々たる解釈を通すと、バッハの普遍性が見事に証明されるようでむしろ快い。この時期のクレンペラーにしか成すことのできない至宝。また、第4番ニ長調BWV1069の、11分38秒を要する第1曲序曲の威容に言葉がない。単に遅い、愚鈍な表現でないところがすごい。複雑な楽曲の細部までが見通せる、不思議に必然性さえ感じられる演奏であり、こういう音楽は他の誰にも奏でることのできないものだ。