フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第5番(1942.10Live)ほか

人間、すべての人間の核心は、神、言うまでもなくさまざまなあり方をしている彼自身の神との宗教的なつながりにある。現代の文明人のみが方式から出発し、神なしの人生を理解する。それゆえ彼は方式の習得にかくも躍起となるのだ。いかに自分の生活が無内容で空虚なものとなっているかに、彼自身は気づいていない。
(1946年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P53

演奏活動を止められている最中のフルトヴェングラーの逡巡。音楽の世界に限らず、現代人が失ったものがここから読みとれる。例えば、ザルツブルク音楽祭において、フルトヴェングラーは「フィデリオ」と「魔笛」の完璧な上演のみが期待されるのだと断言するが、この2つのオペラにこそ人間の核心たる神、すなわち良心、自在神が描かれているのだとする見解はわからなくもない。

ザルツブルク音楽祭は個々の人間から成り立っているのではない。もっと重要なものは、個々の人間の背後にある精神、すなわち個人の功名心などはまったく問題とせず、音楽祭をして特定の芸術精神の発露としている精神である。
「ザルツブルク音楽祭」(1949年)
~同上書P153

いかに作品そのものを語らせるかが音楽家の力量。

生物学的考察によればブルックナーは、先にも指摘しておいたのですが、一種独特の混血を示しています。一面においては生粋の国民の児であり、庶民であるとともに、他面においては、感覚において鋭敏な、あらゆる崇高な種に属する陶酔に対して感受性の豊かな芸術家でもあります。強壮な逞しい単純性と高次な精神性との混血は、ことにドイツの作曲家たちの場合、それほど稀に見られる現象ではありません。この意味でのブルックナーの先駆者としてはシューベルト、ハイドン、ベートーヴェン、ブラームスなどがありました。—もっともブルックナーの場合、しばしば民衆的なもの、と言っても、もっとナイーヴな、直截的な色が濃く、精神的なものはもっと崇高な、もっと世俗を拒絶したものであるように思われます。
「アントン・ブルックナーについて」(1939年)
フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P170

フルトヴェングラーの指摘通り、確かに世俗を拒絶したような精神性はあろう。だからこそ彼はブルックナーの作品に世俗性をもたらそうとした。拒絶反応を示す聴衆に、ブルックナーの音楽の素晴らしさを少しでも伝えんと、人間的な感情を反映させる、感情の揺れや思考の明滅を、それもできるだけ人工的に付加しようとした、それこそがフルトヴェングラーのブルックナーに対する方法だった。

正しい均衡を保ち、「静力楽的」に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。法外に長い作品(ブルックナー)に対する聴衆の嫌悪は、もっともな根拠を有している。
(1945年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P34

ザルツブルク音楽祭はフェストシュピールハウスでのブルックナーの交響曲第5番変ロ長調。音楽はとことんうねり、聴衆をこれでもかと言わんばかりに刺激する。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.8.19Live)

ウィーン・フィルの、柔らかい、曖昧な語法が、フルトヴェングラーの意図を少々スポイルしている気もするが、そう感じるのは古い録音のせいでもあろう。その点で、一層厳しくも素晴らしい演奏は、その9年前の手兵ベルリン・フィルとのものだ。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1942.10Live)

第2楽章アダージョに醸す、人間的喜び。ここには官能すら感じられるのだが、その趣きは続く第3楽章スケルツォや終楽章に色濃く反映される。せせこましい瞬間も多発するが、コーダでの凄まじい開放は、戦禍の中にあって、旧フィルハーモニーに居合わせた聴衆にのみ与えられた熱い神の啓示のようだ(こんな演奏、表現は現代の指揮者の誰にもできないと思う)。

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