
官能の奔流。
かつて、後にドビュッシーの愛人となったエンマ・バルダック夫人との逢瀬、不義の関係を象徴するかのように、ガブリエル・フォーレの音楽には抑圧された官能が(心なしか)読み取れる。特に、耳疾を発症して以降の晩年の作品には、もどかしさと苦悩が一気に押し迫る嵐のような悲哀が刻印されるのだ。
フォーレの作品は、あくまで古典的な形式の域を出ることはない。
しかし、内容はさすがにリヒャルト・ワーグナーの影響下にあり、半音階を多用し、時には無調的な瞬間も垣間見せる。ほとんど揺れる感情を音で表現するかのように転調も頻繁だ。
現代のフランスを代表する奏者たちによる渾身の全集からの1枚。
梅雨時の、雨に濡れる大自然の中にあって、僕たち人間の心は沈むどころか明るくなる。これぞ音楽の効用ともいうべき法力の作用なのかどうなのか。音楽とはまさに気力なのだと僕は思う。かつての名盤、ユボー&ヴィア・ノヴァ四重奏団による演奏が「陰」の様相を軸にするのに対し、エベーヌ四重奏団を軸にした本演奏は、「陽」の様相を本懐とする。後ろ髪を引かれるような官能ではなく、ここには堂々たる、正面からの愛がある。
五重奏曲ニ短調作品89の健康的な音。最晩年の名作、五重奏曲ハ短調作品115を、作曲者は実際聴いていない。しかし、心の耳で創造した音楽には、彼の、人生を全うする上で重要なつながり、一体化を匂わせる覚悟がある。それは、死を恐れぬ覚悟だ。
私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ。
ガブリエル・フォーレ辞世の言葉が何て儚いのだろう。
彼の遺した音楽は、すべてがあまりに美しい。