ベートーヴェンは、会話帖で「私にとって、ソクラテスとイエスはお手本である」と述べた。
ソクラテスもイエス・キリストも、自身では書物を残さなかった点で共通している。おそらく彼らが得た真理は、言葉にならないということだ。
そしてまた、ベートーヴェンはカント哲学にも精通した。ロマン・ロランは書く。
およそ音楽家ではなかったが、彼にとって疎遠であった芸術の領域においても天才的な直観の人であったカントと、およそ形而上学に通じていなかったが、カントの美学的道徳的概念や願望をそれとは知らずに実現したベートーヴェンとのあいだに、予定された精神的親近性があったとしても何ら不思議ではない。
~ロマン・ロラン著/佐々木斐夫、吉田秀和ほか訳「ベートーヴェン 偉大な創造の時期2」(みすず書房)P62
カントに通じる美学的道徳的概念と、ソクラテスやイエスに通じる明文化できない真理を、ベートーヴェンは辛うじて音楽に託したのではなかろうか。おそらく彼の意志の数パーセントしか記号化できていない楽譜というものを頼りに、後世の音楽家はとにかくベートーヴェンが表現しようとした心情を、思いを音化しようと努力した。
中でも、自身が見た田園風景そのものの描写でなく、そこから内的発露される心境を音楽にした交響曲第6番の素晴らしさ、美しさは言語を絶するものがある。
ベートーヴェンの交響曲全集数多あれど、各作品の楽章ばらばらに異なった指揮者、オーケストラが演奏するケースはほとんど聞いたことがない。例えば、交響曲第6番「田園」も、そのことを知らずに何となく聴いてしまっていると、指揮者もオーケストラも楽章によって違うということに気づかないくらい自然で統一感のあるものになっている。
本録音の場合、白眉はゲルハルト・ボッセ指揮九州交響楽団による第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポだろうか。颯爽と輝く理想的なテンポで、かつ全編インスピレーションに満ちており、文字通りベートーヴェンが自筆譜に残した標題通りの「心地よい、陽気な気分」を表現する。当時85歳、老練の棒が大宇宙、大自然の真理と一体となって閃光を放つ様。
もちろんハンス=マルティン・シュナイト指揮神奈川フィルによる第2楽章アンダンテ・モルト・モッソも情感のこもった、ゆったりとした好演。そして、クリスティアン・アルミンクによる後半3つの楽章は、やはり終楽章アレグレットの終結に至る運びの巧さ、流れの良さ、コーダの淡い寂寥感に太鼓判を押したい。
ちなみに、ドミトリ・キタエンコ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢による交響曲第8番は、アタックの鋭い、劇的表現に富んだ、前進運動に優れた逸品。
こういう企画が成り立つのは、何にせよベートーヴェンの優れた音楽性、音楽構成力ゆえ。