
花は薫じ手追い風に、不断の香の炉に似たり。
痍に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈よ、
神輿の台をさながらの雲悲みて艶だちぬ。
シャルル・ボドレエル「薄暮の曲」
~上田敏訳詩集「海潮音」(新潮文庫)P43
「薄暮」とかいて「くれがた」と読ませる粋。
上田敏は、当時の船舶で陳腐な感傷文字に一石を投じ、「文芸の本意」とは何かを説かんとした。
古はしからざりき。紅のはつ花染の色深く、おもひし心われ忘れめや。君来ずばねやへも入らじ、濃紫、わがもとゆひに霜はおくともの剴切、をさをさ西邦の名句に劣るべしとも覚えざるもの、又かかる切なる恋せずば、知らず、別れもせずあらば、かかるいたみもあらざらましをとひけむ蘇国詩人の絶唱は、今の律語を編む人に求むとも得難からむ。詩は業なり。虚に似て実なり。雪に思は深草のなにがしが情ありてこそ、一代の秀句、人のもとはやすに至らめ。
(明治33年「文芸の本意」)
~同上書 矢野峰人解説P156
ここでは、保守的であることを賞賛しているわけではないだろう。古の格調高い趣を残す中にこそ真の確信を見つけてこそ真だと彼はいうのである。型破りは良いが、あくまで格調まで破壊しないというのが前提なのだ。
ガブリエル・フォーレの、それこそ格調高さを失わず、しかし、盟友サン=サーンスの保守性(?)とはまた異なる新たな音楽を創造した力量に、僕は上田訳ボドレエルの「くれがたの曲」を思った。
ようやく秋めく今日この頃にフォーレ。
フォーレの音楽は滋味溢れる。滋味とは地味でもあり、また慈味でもある。どんな演奏でも聴いていて古ぼけたモノクロの写真を見せられるようでとても懐かしい。中で、最近聴いたカプソンのチェロとダルベルト、アンゲリッシュのピアノ伴奏が織り成すチェロ作品集は、落ち着いた色合いの、実に美しいもので、聴いていて心がとても安らかになる。ソナタは第1番より第2番に軍配が上がるか。特に、第2楽章アンダンテは愁いと喜びが錯綜し、本当に人間らしい、雅な音楽だ。チェロとピアノの二人三脚、何とも心が洗われる。