グリモー ネルソンス指揮ウィーン・フィル ブラームス ピアノ協奏曲第2番(2012.11Live)

私はうーんと大きく伸びをした。向こうで母親があの少女を呼んでいるが、彼女は聞こえないふりをしている。兄弟はおもちゃの短剣を大きなかばんの中に片付けはじめた。父親は綿のシャツに着替えている。海は輝き、私の後ろには、大きな客船のように見えるオテル・デ・バンが太陽の光を浴びている。ペンキのはげ落ちた客室にふと目をやると、そこにトーマス・マンの影が揺れているような気がした。すると、マーラーのあの漠とした音楽が流れはじめた。交響曲第5番の第4楽章、アダージェット。けだるい旋律は、塩と熱風に包まれた風景を隅々まで浸し、永遠の憂愁の中へと沈めていった。
こんなふうに、音楽はいつでも私に影響を与えていた。音楽の思い出が、私自身と私が訪れた土地をまるごと飲み込んでしまうのだ。ふと思い出した海の風景が、サン・マルコ寺院のモザイクの床を波打たせるようなぐあいだ。それはもはや影響というより、支配といったほうがいいのかもしれない。いつか音楽から解放される日が来るのだろうか? いや、不可能だ。どうすればいいのだろう? 音楽に飽きたわけでも、音楽が嫌いになったわけでもない。昨夜、眠るときに私のそばにいてくれたのも、ブラームスの五線譜に並ぶつばめたちだ。作曲家の沈黙とため息が私を眠りへと連れて行ってくれたのだから。

エレーヌ・グリモー/横道朝子訳「幸せのレッスン」(春秋社)P99-100

夢のような、小説のような、自伝とはいえ、まるで自伝とはかけ離れた文章の妙に、エレーヌ・グリモーの演奏に垣間見る幻想を僕は重ね合わせてみた。彼女が弾くブラームスには、断固とした芯のほかに、他の演奏家が追随し得ない、柔らかな、のりしろとでもいうのか、どんな風にでも解釈のできる隙間、否、余裕がある。もちろんそれは聴き手の感性に委ねられる。僕たちが求めれば、彼女の演奏はどこにでも無限に拡がって行く。

8年前に聴いたブラームスのピアノ協奏曲第1番は、そのときは確かに心を揺さぶられたのだけれど、残念ながら今、ほとんど記憶には残っていない。

久しぶりに聴いたブラームスのピアノ協奏曲第2番の演奏に、中性的な、決して圧倒的とは言えない、柔和で美しいブラームスを発見した。ここには厳めしいブラームスはなく、母性に包まれた、愛らしいブラームスが存在する。

・ブラームス:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
アンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2012.11Live)

ウィーンは、楽友協会大ホールでのライヴ録音。
エレーヌのピアノは、ウィーン・フィルの柔らかな音響と相まって、とんがることなく、まろやかな響きでブラームスを描く。そう、まさに彼女が夢見た、ブラームスの沈黙とため息が聴衆を包み込み、眠りへと誘ってくれるかのように優しいのである。どの楽章も素晴らしいが、白眉は第3楽章アンダンテ—ピウ・アダージョから終楽章アレグロ・グラツィオーソ—ウン・ポコ・ピウ・プレストにかけての瞑想から解放へのドラマだろうか。

今なら、ふっと笑ってしまう。そんな批判はどうでもいい。私は空間の中にいる。それを自分のものにしている。オオカミ、音楽、文章を書くこと—私はその全部の「あいだ」にいる。そこが自分にぴったりの場所なのだ。
~同上書P169-170

すべてが幻想であり、空想であるのだとエレーヌは教えてくれる。
目の前のブラームスの音楽さえだ。

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