スカルラッティのソナタは、きわめて自由奔放な手法で綴られ、絢爛として機知に富んでいる。そこには、スペインでつちかわれた民族的な技法や踊りの強烈なリズムも、しばしば姿をみせる。スカルラッティの用いた楽器はチェンバロであるが(初期のフォルテピアノを用いたとする説もある)、それらのうちには、今日のピアノで演奏しても効果的でおもしろいものが少なくない。それは、スカルラッティがどれほど時代に先駆けていたかの、ひとつの証明であろう。
~礒山雅「バロック音楽 豊かなる生のドラマ」(NHKブックス)P180
相変わらず僕は、ホロヴィッツの弾くスカルラッティに欣喜雀躍する。
感情の坩堝たるソナタ群に人の吐息を感じ、大自然の呼吸を僕は感じるのである。喜びのフレーズがあると思いきや、一転、悲しみの表情を湛える様子はモーツァルトの方法にも匹敵する。短い、2部構成の、全555曲というスケールながら一つとして同じものがない多様さ。シンプルな中にこそ見出せる革新をホロヴィッツは実に情感豊かに表現する。何という生命力なのだろう。
僕には誕生の記憶はない。まして胎内記憶もない。しかし、生後数ヶ月の、母と共にあったあの頃の記憶は不思議と鮮明にある。ちょうどその頃、ニューヨークはコロンビア30丁目スタジオで録音されたソナタ群は僕の宝物だ。そして、一層生き生きと奏でられるのが、カーネギーホールでのライヴ録音であるソナタホ長調Kk380(L23/P483)とソナタト長調Kk55(L335/P117)だ。何と軽快に音楽が歌われることか。
イタリアはナポリに生を享けたドメニコが、今目の前で歌を紡ぎ、溌溂と奏するような楽の音は(アドルノの指摘にあるように)何ともオペラのアリアの如くだ。例えば、ソナタニ長調Kk194(L164/P484)のポピュラリティ!
何ものにも操られない民衆的な音楽行為の生気は、ヨーロッパでは今日なお、個々の国々の間でさまざまな違いがあるであろう。ドイツのように、偉大な作曲の個々の仕事がすっかり音楽の理想になったところでは、集合的自発性はイタリアの場合より少ない。南部イタリアでは、何がどうあれ、ともかく人間の言葉が音楽的媒体から完全には分離していないように見える。一方そこでは、ある程度古代的な民俗音楽性、ヘーゲルのいう意味で実体的なもの、省察に先行するものが、これもかつてはそれなりに最も個人的な領域に属していた素材すなわちオペラにかかわっている。オペラはイタリアではあいかわらず、北の国々では考えられないほどポピュラーである。芸術歌曲と流行歌との中間をあれほど奇蹟的に保っているナポリの歌を思い起こしてもよかろう。それらはカルーソーのレコードやプルーストの小説にその神格化を見いだしたのであった。
~テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント/高辻知義・渡辺健訳「音楽社会学序説」(平凡社)P324-325
時はバブル経済真っ只中。東京ビッグサイトができる以前の、晴海の東京国際見本市会場で開催されていたイベントに仕事の所用で訪れた際のバス車中、僕はこの音盤をCDウォークマンに仕込み、聴いていた。蒸し暑い夏の、当時の晴海の雑多な風景が、ホロヴィッツの弾くスカルラッティの記憶とともに脳裏に焼き付いている。