朝比奈隆が、新日本フィルとの8度目のベートーヴェン・ツィクルスを成したのは89歳の時だった。そのすべての回を僕は会場で聴いたが、そのときの印象は、10年前、つまり新日本フィルとの最初のツィクルスの衝撃があまりに強過ぎたせいか、今ひとつだった。
あらためてリリースされた録音を聴いたとき、なるほど、あれは熟成、というより朝比奈の枯淡の境地の顕現であり、完全に脱力された、一切の不純物のないベートーヴェンだったのだと僕は思った。
なぜベートーベンなのか。
「例えばチャイコフスキーの交響曲はカラフルで面白いけれど、どこか底が見える感じがします。その点、ベートーベンは譜面は簡単に書いてありますが、奥が深い。演奏すればするほど難しいと感じる。だから一生懸命やる値打ちがあるんです」と朝比奈は言う。
「ベートーベン交響曲はバイブル」
~1997年7月15日火曜日 朝日新聞(夕刊)
楽聖ベートーヴェンの音楽は確かに深い。2年後には没後200年の記念年を迎えるが、朝比奈隆がこの世にいないことが残念でならない。「ベートーベンの音楽はバイブルのようなものなのですね」という質問に対し、かつて朝比奈は次のように語った。
バイブルに比べることができると思います。一生涯かかっても、およそ出来上がったという気がしない深さがあります。演奏後、いつも自分の力の足りなさを思います。
ベートーベンの交響曲は簡素な譜面ですが、内容的に強いですね。演奏するときは自分の情感が強くないと、変なものになります。気力が衰えたベートーベンなんて聴くにたえないですね。
~1996年12月3日火曜日 朝日新聞(夕刊)
最晩年にして最も輝いていた頃の朝比奈隆の言葉の一つ一つは実に重い。
元々予定されていた伊原直子(アルト)は本人の都合で秋葉京子に代わった。
いかにも朝比奈隆の「第九」である。
この時期の朝比奈の演奏は若々しく、颯爽としたものが多く、この演奏もそういう部類に属するものだと思う。そして、かつて朝比奈自身が語ったように、びくともしない誠実さに満ちた音楽であり、オーケストラや声楽陣の健闘も素晴らしく、緊張感に溢れる。
実演の際の様子は今でも僕の脳裏に浮かぶが、録音との印象は随分異なる。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソは、朝比奈のベートーヴェンの総決算ともいえる内容で、冒頭から音を弱めず、重心も低くし、ベートーヴェンの真髄を説く、理想の音楽が鳴り響く。
第2楽章モルト・ヴィヴァーチェ—プレストの冷たい情熱。あくまで客観的に、楽譜に基づく音楽が見事に奏でられる。白眉は第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレ—アンダンテ・モデラートだ。自然体の中に垣間見られる安寧は、89歳の朝比奈隆の境地であり、「何もしない」がゆえの安心がある。
ベートーベンは「第九は特別な曲だから第一バイオリンを8人にしてほしい」と頼んだといいますが、いま16人や18人にしても、まだ足りないと思わせる内容です。作曲者にしてみれば、してやったり、というもんでしょうな。演奏技術が進歩し、楽器も改良されて音量が出るようになっても、ベートーベンの作品はびくともしませんからね。
~1996年12月3日火曜日 朝日新聞(夕刊)
いつも朝比奈の口調が目に浮かぶ。
終楽章プレスト—アレグロ・アッサイの「歓喜」は実に健康的であり、3年後の最後の東京公演で観た老いた姿とは裏腹に、いつどんなときも喜びの中にあれることを望む、朝比奈隆の気概が十分に伝わる名演奏だ。
※余談だが、この公演の終了後、僕はピッキング被害に遭い、某銀行の通帳を盗まれ、口座から全額を引き出されたのである。そういうことからも忘れられないコンサートだ。