バーンスタイン指揮ウィーン・フィル モーツァルト 交響曲第29番K.201(186a)(1987.9Live)ほか

バーンスタインがウィーン・フィルと録音したモーツァルトの小ト短調は意外に温い。僕はもっと激した、疾風怒濤のそれを想像していたから、はじめて耳にしたとき少々がっかりした。この、混沌よりも調和を、悪魔的音調よりも天使のそれを希求するような老練の演奏の良さがわかったのは、リリースから何十年も経ってからのことだ。

あらゆる劇的シチュエーションと同じく、音楽的シチュエーションも同時的なものをもつが、力の働きは一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象は、ともに鳴り響くものを共に聞くということによって生ずる統一である。劇が反省し尽くされていればいるほど、ますます気分は明白に行動として現われる。行動が少なければ少ないほど、ますます抒情詩的契機が有力になる。
ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P143

あくまで「ドン・ジョヴァンニ」を軸にしたキルケゴールのオペラ論の一節だが、オペラというジャンルでなくとも、また声楽でなくとも、すべて音楽には「歌」があり、あるいは目で見ることができない劇的シチュエーションがあり、その意味では、上記の論は(少なくとも)モーツァルトのすべての作品に通じるもののように思われる。モーツァルトの音楽にあるものは、真の交響であり、共鳴であり、調和なんだと僕は思う。

モーツァルトに限らずすべての音楽の中で「ドン・ジョヴァンニ」を第一とするキルケゴールにあって、本論の最後に「無意味な後奏」として彼は次のように認める。

そこで私はもう一度モーツァルトの幸福を喜びたい。この幸福はそれ自体としても真に羨やむに値するのだが、ほんのわずかでも彼の幸福を理解するすべての者を幸福にするがゆえにも、羨やむに値するのである。少なくとも私は、モーツァルトをたといごく遠くからにもせよともかく理解し、彼の幸福を感じたということを、名状しがたい幸福だと思っている。まして彼を完全に理解した人びとは、どんなにか多くの幸福をあの幸福なモーツァルトとともに感ずることであろう。
~同上書P176

いかにも謙遜しながらも、自分ほどモーツァルトの幸福を理解している者はいないというほとんど恋文のような激賞に言葉がない。モーツァルトは天才だ。年齢を重ねれば重ねるほどその優しさ、その美しさ、その妙味が心に沁み、魂に刺さる。

モーツァルト:
・交響曲第29番イ長調K.201(186a)(1987.9Live)
・交響曲第25番ト短調K.183(173dB)(1988.10Live)
・クラリネット協奏曲イ長調K.622(1987.9Live)
ペーター・シュミードル(クラリネット)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

イ長調K.201(186a)は、フランクフルト・アム・マインのアルテ・オパーでのライヴ録音、K.622は同年同月ウィーンのコンツェルトハウスでのライヴ録音、さらにト短調K.183(173dB)は、ウィーンの楽友協会大ホールでのライヴ録音となる。最晩年にバーンスタインが頻繁にとりあげたモーツァルトは、いずれも外面は溌溂とし、内側から何とも表現し難い官能が滲み出る名演奏なのだが、本盤収録の2つの交響曲は実にあっさりとした(?)響きで一聴物足りない印象を受ける。しかし、キルケゴールが書くように「モーツァルトの幸福」を聴かんと欲し、そこに喜びを見出そうとするならバーンスタインがとろうとした方法は即座に理解できるというもの。そう、交響、共鳴を起そうと指揮者は祈りを込めて音楽に対峙する。共に聴くことによって生ずる統一よ。何より交響曲第29番イ長調K.201(186a)が素晴らしい。

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