ポゴレリッチ ラヴェル 高雅で感傷的なワルツほか(1995.8録音)

だからこそスターソフは、出版譜で「二頭の牛に牽かれ、巨大な車輪のついたポーランドの荷車」と説明したのだし、友人のリムスキー=コルサコフも、校訂の際、荷車の動いている様をより明確に描写するために、冒頭をpp(ピアニッシモ[とても弱く])で開始して次第にクレッシェンドするように加筆したのだ。
もっとも、このppへの書き換えは大問題だ。原曲がff(フォルティッシモ[とても強く])で始まっているのには、理由があるからである。もしも、リムスキー=コルサコフのような情景なら、ムソルグスキーは重い物を引き摺って苦役している人をただボーッと見ているだけということになる。民衆の中へ入りたい彼には、それは出来ない。誰かが苦しんでいたら、駆け寄って手を差し伸べて、一緒に苦役を分かち合う—これこそがムソルグスキーの思想である。だから、いきなりffで始まるのだ。これはまさにレーピンの「ヴォルガの舟曳き」と同じ構図だ。ベートーヴェンのトルコ行進曲のように、遠くから近づいて、目の前を通過して、また遠くへ去っていくのでは、単なる傍観者。ムソルグスキーの思想が理解できなかったリムスキー=コルサコフは、より分かりやすくしたいが為に、ありきたりの情景を想像して冒頭をppに変えてしまった。

一柳富美子著「ムソルグスキー 『展覧会の絵』の真実」(ユーラシア・ブックレット)P45-46

この記述を読んで、僕は思わず膝を打った。ムソルグスキーの原曲にあってラヴェル編曲の管弦楽版にない、どうにも赤裸々な、ロシアの大地に根差したような俗的な要素の有無。それこそが音の描写の巧拙であり、作曲家の個性であり、また才能の差なのだと痛感する。リムスキー=コルサコフになくムソルグスキーにあった天才! 組曲「展覧会の絵」第4曲「ブィドロ」にみる重い苦悩と文字通り分かち合い!
テンポを悠々と、そして打鍵は強力に。イーヴォ・ポゴレリッチが実演で魅せるオーラは録音には入り切らない。しかし、録音には録音なりの、細かく錬磨され、研ぎ澄まされた音のひしめきがある。唯一無二の「展覧会の絵」。

ちなみに、創作活動の中心があくまでオペラにあったムソルグスキーにとって器楽曲への関心は比較的薄かったようだ。実際、「展覧会の絵」も作曲後速やかに認知されたわけではない。ましてや世界で演奏された記録もほぼ皆無で、(ご存じのように)クーセヴィツキーの委嘱によりモーリス・ラヴェルが編曲した管弦楽版が1930年にボストンで初演されて以降爆発的な人気をようやく得たのである。

またこの曲は、完成からわずか1週間後に母親代わりのオポチーニナが亡くなり、それによって彼は深い精神的打撃を受けたということも知られている。作曲には直接関係はないけれど、音楽そのものにはムソルグスキーの本性である慈悲深さ、ある意味繊細さまでもが聴きとれ、それを見事に音化するポゴレリッチの力量に舌を巻く。第10曲「キエフの大門」の巨大さに垣間見える悲しみよ。

・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」
・ラヴェル:高雅にして感傷的なワルツ
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)(1995.8録音

一層素晴らしいのが「高雅にして感傷的なワルツ」。
シューベルトをモチーフにした8つのワルツがセンス満点の色彩によって紡がれ、ポゴレリッチの弾くピアノが何と物憂げでまた可憐に響くことだろう。全ワルツが回想されるエピローグの巧さ、美しさ、洒脱さ。

スコアにはアンリ・ド・レニエの小説『ド・ブレオ氏の出会い』(1904)から、「無益なことに従事する、楽しく日々新たな喜び」という引用が掲載されている。
アービー・オレンシュタイン著/井上さつき訳「ラヴェル生涯と作品」(音楽之友社)P221

実際のところ、日々の出会う人事物に無駄なことはひとつもない。無益に見える仮の世界を借りて真を悟ることが新たな喜びにつながるのである。ド・レニエはそのことがわかっていたのかも。もちろんラヴェルも。ポゴレリッチのピアノの文字通り「高雅さ」よ。

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