Wilhelm Furtwängler rehearsals Brahms Symphony No.4 in 1948,London

Wilhelm Furtwängler with VPO in London, 1948

フルトヴェングラーの残された映像はどれもが貴重だが、とりわけ心に響くのは、1948年のロンドン楽旅時のベルリン・フィルとのブラームスの交響曲第4番終楽章のリハーサルである。ほとんど鬼神が乗り移るかのような、とてもリハーサルとは思えない、練習番号E以降の筆舌に尽くし難い壮絶な演奏は、画質の古さを横におき、聴く者の肺腑を抉るほどのティンパニの炸裂と猛烈な管楽器の咆哮、そして弦楽器のうねりに彩られ、飛びぬけた感動を喚起するものだ。
これはもう、おそらくブラームスの思念の枠を超えた、もはやフルトヴェングラーでしか成し得ない、まるで憑りつかれた人間の、想像を絶する神聖なる儀式の一つだと言っても過言でない。

ブラームスの交響曲第4番ホ短調の残された録音は3つ。いずれもがライヴ録音だけれど、そのどれもがフルトヴェングラー色一色の、最高のパフォーマンスだと思えるが、造形の大枠は戦前も戦後もほぼ変わりなく、若い頃から彼のブラームスに関する志向はまったく変わっていないことが窺われ、実に興味深い。

私はいつもブラームスをファン・ダイクやレンブラントなどの古きドイツやオランダの画家の子孫とみなしている。彼らの作品は、深い感情や想像力、そしてときには衝動的な説得力を併せ持ち、また見事な形式感覚と結びついているものである。ブラームスのいくつかの作品、たとえば一連の変奏曲には、この古きドイツ芸術家の感受性との親近性がとくに歴然と表われている。形式を具現化できる彼の特異な能力は、きわめて謙虚な手紙から交響曲や佳曲に至るまでの、彼が残したすべてのものに明白に表われている。ブラームスが有する形式はドイツ特有のものであり、決してそれ自体を目的として存在しない、均衡と優美な清澄さのハーモニーと一体化される「内容」の一つの機能にすぎない。
(フルトヴェングラー著「ブラームス」~「音と言葉」所収)

変奏曲こそブラームスの形式の最高最美のものだとフルトヴェングラーは考えるのだろうが、彼の指揮するかのパッサカリアこそ「均衡と優美な清澄さのハーモニーと一体化する」相応のものだとあらためて痛感する。

Wilhelm Furtwangler rehearsals Brahms Symphony No.4 in 1948,London

とてもリハーサルとは思えない力の入り方に脱帽。
そして何より生み出される音楽の生々しさ、生命力!!
短い時間ながら40年前はじめて映画館で観たとき、動くフルトヴェングラーに僕は雷に打たれかと思われるほど衝撃を受けたことを思い出す。その感動は今もって変わらない。

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