
室生犀星の「抒情小曲集」序曲。
詩も音楽もたったひとりで対峙し、夢想すればこそ孤独を癒してくれるものだろう。良い音楽とは愛そのものなんだと言っても過言でなかろう。
抒情詩の精神には音楽が有つ微妙な恍惚と情熱とがこもつてゐて人心に囁く。よい音楽をきいたあとの何者にも経験されない優和と嘆賞との瞬間。ただちに自己を善良なる人間の特質に導くところの愛。誰もみな善い美しいものを見たときに自分もまた善くならなければならないと考へる貴重な反省。最も秀れた精神に根ざしたものは人心の内奥から涙を誘ひ洗ひ清めるのである。
いとけなかりし日のおもひでに
~室生犀星「抒情小曲集・愛の詩集」(講談社文芸文庫)P17
10代の少年が生み出したとは思えぬ深遠さ。しかし、そこにはまるで純粋な、無垢な情が込められるように思う。故郷金沢で紡がれた「小景異情」その一。
白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
そとにひる餉をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり
~同上書P32
五感を研ぎ澄まそうとせずとも、たったひとりきりならば感覚は冴えるもの。
何という寂寥感!!
続くその二はお馴染みの詩。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
~同上書P33
聴覚を失いつつあった、否、ほぼ完全に失ってしまったベドルジハ・スメタナの心象風景たる「わが祖国」には悲しみも喜びも、あらゆる感情が刻印される。1990年の「プラハの春」音楽祭のオープニングでは、ラファエル・クーベリックが44年ぶりに凱旋し、棒を振った。
プラハはスメタナ・ホールでの記念すべきライヴ録音。オーケストラ団員がこの日を待ちわびていたかのように集中力と緊張感をもって音楽に向き合う姿勢が如実に感じられる。第1曲「ヴィシェフラト(高い城)冒頭のハープのアルペジオから何と喜びに溢れていることだろう。第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」は、どちらかというと思い入れを排除し、淡々と進められる即物的な印象だけれど、滔々と流れる川のように音楽は生きている。
「小景異情」その三。
銀の時計をうしなへる
こころかなしや
ちょろちょろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり
~同上書P33-34
あまりに現実的な喪失感の中で詩人はただ悲しみを表出する。伝説の女戦士シャールカの物語を想像力で自由に補えとスメタナは言う。戦士の心底にあるのは孤独と寂しさだ。そして、第4曲「ボヘミアの森と草原より」は、人間感情の機微を踊りや歌を通して喜びを描くもので、聴覚を失ったスメタナの傑作だと僕は思う。
「小景異情」その四。
わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる
~同上書P34
仮名と漢字を使い分けるのが犀星の妙。自省こそが詩人の魂の発露なのである。
「小景異情」その五。
なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舎暮らしのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて
すももの下に身をよせぬ
~同上書P34-35
過去を回想してのものなのかどうなのか、ここには懐古がある。
さらに「小景異情」その六。
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
~同上書P35
自らの内面を詠んだかと思えば、詩人の意識はあっと大自然に向かう。そこにあるのは故郷への、母への愛というものだ。
第5曲「ターボル」も第6曲「ブラニーク」も、フス教徒の革命を扱ったもので、愛国の讃歌が高々と奏される。なにより「ブラニーク」の終結は、ほとんどイタリア・オペラの大団円のように大見得を切るような潔さ。素晴らしいと思う。