よくある他愛もない男女の関係のもつれ、あるいは痴話喧嘩、というよりゲームの応酬の人間社会の縮図である。サッフォーは紀元前のギリシャの女流詩人だが、主人公のファニー・ルグランは、サッフォー像のモデルであり、周囲から「サッフォー」と呼ばれていた。このオペラは、ファニーとプロヴァンス出身の朴訥な青年ジャン・ゴッセンとの愛(?)の物語である。
事の顛末はさておき、重要なるはやはりジュール・マスネの音楽だ。最盛期の、最も充実していた頃のマスネの音楽は極めて美しい。
マスネは、彼の音楽を愛好する美しいご婦人方が手に持っている扇の犠牲だったように思える。扇のわななきは、マスネの栄誉をたたえて、実に長く止まなかった。彼は自分の名のうえに、あのいい香りのする羽のわななきを、何としてでも長く引きとめようとした。残念ながら、それは蝶々の一群を飼い馴らそうとするに等しかった。おそらく不足していたのは我慢の良さというものだけである。そして彼は沈黙の値打ちをおろそかにした。現代音楽に対するマスネの影響は、非常にはっきり目立っている。しかも、マスネに負うところ多大な幾人かの連中は、そのことを自認しない。彼らは素知らぬ顔で、影響を否定している。卑劣だ。
「オペラ座のこと」
~杉本秀太郎訳「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社)P28
ドビュッシーの評論は手厳しいが、実に的を射ている。マスネは大衆に迎合していたのかどうなのか、わからない。しかし、やはりその音楽はわかりやすく、また親しみやすい。巧みな心理描写、目に見えるような情景描写、すべてが音楽的で素晴らしいと僕は思う(浪漫的過ぎて時代遅れの印象を与えなくもないけれど)。
70年代らしく、パリはサル・ワグラムでの長期にわたるセッション録音。
さすがに丁寧な音楽作りは、時代を超えて光輝を放つ。
中でも、昨年3月、満100歳で天寿を全うした往年の名ソプラノ、ルネ・ドリアのファニーが素敵。何より喜怒哀楽、感情の揺れ、思わせぶり、起伏の激しいファニーの情感をこれほどまで豊かに表現できる歌唱にため息が出るほどだ。
ところで、10番目のムーサと呼ばれたギリシャの女流詩人サッフォーの詩は、恋愛を主題にしたものが多く、後世の評価は「退廃的」だとするものもあるという。なるほど、いかにも官能的なサッフォーを現代のどこにでもいるようなじゃじゃ馬女(?)に転化し、マスネは退廃よりも浪漫を前面に押し出し音化、そうして世界を巻き込もうとしたのかもしれない。