徐に始まる「ジークフリート牧歌」。
モノラルの、ふくよかな音に期待が膨らむ。
アンドレ・クリュイタンスはもちろんモーリス・ラヴェルの解釈にかけては古今東西随一の実力を持つ人だけれど、1950年代のバイロイトを席巻したという点からも想像できるように、ワーグナーやベートーヴェンをはじめとしたドイツ音楽に、飛び切りの相性の良さを持つ天才である。1967年と、割合いに早く亡くなったことが今となっては残念でならない。
ジークフリートにまつわる諸曲の、どちらかというと毒の抜けた、清廉な響きがワーグナーの陽の側面を助長し、音楽に躍動感を与える。例えば、「森のささやき」の、地から湧き出る、生命力満ちる澄んだ音、そして、「ジークフリートのラインへの旅」の流麗で軽快な音に音楽の必然性が心に沁みる。
楽劇の抜粋として聴くのではなく、独立した管弦楽産品だと想定して聴くと面白い。
「葬送行進曲」も、ジークフリートの死の直後を意識したものではなく、重厚な装いを持ちながら、何だかとても明朗な響きに聴こえる(確信に満ちたティンパニの一撃が肺腑を抉る)。
もともと「ニーベルングの指環」は、世界の破局というひとつのヴィジョンから生まれたものだった。1848年当時ワーグナーは、この破局を経ることなしに人類の再生はありえないと考えていた。ジークフリートはそれゆえ、新しい夜明けを約束する希望の星であるはずだった。
しかし神々の権力欲によって世界が頽廃していくメカニズムを解体しようとしたワーグナーは、実際には巨大な運命の力のメカニズムを組み立ててしまった。その運命の力のあまりの大きさに、やがて「自由な人間」による革命は、もはや以前のようには考えられなくなった、というより完全に不可能になった。
~フィリップ・ゴドフロワ著/三宅幸夫監修「ワーグナー—祝祭の魔術師」(創元社)P164
現実にワーグナーが真の宗教の到来を待ち望んだのは、もはや人智を超えた力の必要性を確信したからなのだろう。
ジークフリートの至高の自由ということよりも、ワーグナーにはヴォータンの内的遍歴の方が重要に思われた。ジークフリートの自由さについて、ワーグナーはもはやあまり確信がもてなくなっていた(彼の自由さは無自覚に基づいており、無自覚ゆえにこの英雄は最初から最後まで操り人形で終わる)。避けられない破局をあたかも自らの意志で選んだことのように引き受けるヴォータンこそが、本物の英雄となるのである。
~同上書P164
「指環」は、すべては因果の輪の中にあり、神々ですら自力ではその輪を抜けることのできない葛藤が描かれた苦悩の大作なのだとあらためて思う。クリュイタンスの音楽はそんなドラマを超えたところにあるからまた面白い。