
ブルックナーの交響曲第8番の第4楽章のカットは私が施したものである。これについて、作曲者は音楽的な工夫をしすぎてまとまりがなさすぎるように私には思える。ブルックナー愛好者はきっとこれに異議を唱えるだろう。しかも、私はこれを他の指揮者の規範として行ったものでもない。私自身の解釈については、私だけに責任がある。
(オットー・クレンペラー)
あまりに有名な録音は、もちろん指揮者の独断でなされたものだが、このどうにもならない横暴ともいえる行為を許し難いと思う一方で、本人の弁通り自己責任の代物として、そしていわば「遊び心」で世に問うたとするならそれはそれで他人がとやかく批判することでもないのではないかと今僕は思う。嫌なら聴かなければ良いだけのことだから。
この暴挙の一方で、音楽的に残すに値する側面もこの演奏にはあるのだからカタログから消えたことはないし、今後も消えることはないだろう(もちろんそれは奇天烈な解釈であっても巨匠オットー・クレンペラー最晩年の貴重な記録だという意味合いも含まれている)。遅々として進まぬ堂々たる音塊といえば聞こえはよろしい。あるいは、誠心誠意の揺るぎない精神的高踏的な解釈だといえば、それはもはや賞賛の言だといえる。何にせよこの録音は、ブルックナー録音史のプロセスのある種頂点にあるのだと言っても過言ではない。
ちなみに、録音当時のクレンペラーの精神状態が果たして良好だったのかどうかは確かに疑わしい。それは、彼の筆跡を見ればわかる(このサインがいつなされたものか定かではないけれど)。もちろん身体が思うように機能しなくなった頃の、ミミズの這ったような稚拙なものだということを差し引いてもやっぱりおかしいと思えるほどの乱れ様なのだ。
文字通り「レコード芸術」たる、(当時一般的だった)多大な時間と労力を費やしての録音の美しさ。
また、オットー・クレンペラーの一挙手一頭足、息遣いまでもが克明に聴こえる音楽の素晴らしさ。

圧倒的な第1楽章アレグロ・モデラートの重み、不死鳥の如く蘇る指揮者の信念を刻印する生気溢れる第2楽章スケルツォ、そして幽玄なる、あまりに悲しい第3楽章アダージョの愁い、どこをどう切り取っても現世に別れを告げるどころか、むしろこの後も何十年も生き永らえようとする老獪(?)の希望の光が僕には見える。その上で、問題の終楽章が一呼吸おいて(つまり音盤を入れ替えて)訪れるだから堪らない。指揮者はこの一条の光をあえて自ら潰さんとする。問題のカットこそ、自己中心的で、かつ自傷癖の強いクレンペラーならではの自刃行為なのではないかと僕は考える。
それにしても、録音時期は異なれど、続く癒しの「ジークフリート牧歌」の室内楽的な響きに心が動く。これぞカップリングの妙味だろう。