「マイルス、ときどきおれはどうやって弾いたらいいか分からなくなることがあるんだ」と私は彼に言った。
「だったら何も弾くな」と、顔も上げずに彼は答えた。あっけなかった。
曲を演奏中に“何も弾かない”ことなど考えたこともなかった。だがマイルスの言葉を聴いた瞬間、私はピンときた。そのとき、彼が私の両手を切る真似をした理由を理解した。楽器の音を出さないことにより、その楽器が発するサウンドが大きく変わるだけでなく、曲全体のサウンドも根本から変わるのだ。それが典型的なマイルスだった。
~川嶋文丸訳「ハービー・ハンコック自伝 新しいジャズの可能性を追う旅」(DU BOOKS)P75
マイルスのアドバイスもさることながら瞬時に理解するハンコックの能力も大したものだ。不滅のクインテットにはこういう「阿吽の呼吸」が当然のようにあったのだと思う。
それにまたマイルスの言葉通りハンコックの酒にまつわるエピソードも実に面白い。
70年代のことだが、ヨーロッパにツアーしたとき、ロード・マネージャーがみんなにおれは酒豪だと自慢していた。あまり吹きまくるので、私は彼に飲み比べをしようと勝負を挑んだ。私たちはポルトガル産グラッパのボトルを用意した。ブドウから作られる強いブランデーだ。私たちはグラスに注いで飲み比べを始めた。最初の5杯あたりまでは、彼もまあまあもちこたえていた。だが10杯目になり、さらに続いて13杯目になると、その男は椅子から床に転げ落ちた。彼はみんなに支えられながら出口に向かった。私はなんとか自分で歩いてそこを立ち去ることができた。私が勝ったのだ!
~同上書P100
若きハンコックの羽目を外した話はたくさんあるが、しかし彼はいつもどこかで冷静だったことを明かす。
以前”Seven Steps to Heaven”を採り上げたとき、マイルス・デイヴィスの視点からこのアルバムの意義を考え、その衝撃的演奏について僕なりに書いた。このアルバムについてのハンコックの回想も実に興味深い。
マイルスは音楽について比喩やイメージで語るのを好んだが、トニーとロンと私は、ライヴが終わったあと、夜遅くまで私たちがやった演奏を分析した。私たちは何時間もかけて、その夜の演奏はどうだったか、翌日の演奏をどのようにやるべきか、といったことについて議論した。私は彼らと音楽について議論するのが好きだったし、この深夜のセッションで多くのことを学んだ。すべてを吸収し、習得したかった。マイルスのクインテットに在籍するということは、伝統の一部になること、ジャズ史上の偉大なプレイヤーにつながる血脈のなかにいることを意味した。心の奥底で、私はその伝統と血脈を汚したくないと思っていた。
~同上書P74
マイルスの言葉にあるように、メンバーはいつもチャレンジ精神旺盛だった。それはマイルスが仕掛けたことだけれど、彼らの革新的創造力があってこそ普遍的な演奏が常に可能だったのだ。
ファースト・セットが始まる前、ロンとウェインを入れて—マイルス抜きで-打ち合わせをした。二人ともそのスタイルでやることに賛成した。マイルスが最初の曲をカウントし始めた瞬間、私はどうやって予想を裏切る演奏をするかということに意識を集中させた。通常、演奏はしだいに構築され、おのずとピークに達する。自然の流れが曲を頂点に押し上げるのだが、私はそれに反し、盛り上げるべきところで静かに演奏して勢いを削いだ。トニーも同じように、ドラミングの音量と強度を高めていき。バスドラムを思い切りキックすべきところでシンバルをそっと叩いた。私たちはまた曲が徐々に静まるところで、逆に激しさを強めた。いい演奏になったかどうかは分からなかったが、私たちが意欲に駆られ、チャレンジしていたことは間違いなかった。
~同上書P111
そういうとき、マイルスはいつも何も言わなかったのだという。いつもとは違うことが誰よりも早くわかっていたのに、だ。その上、メンバーがやることをきちんと受け止めて、それ以上のパフォーマンスを「いつも」やり遂げたというのだから畏れ入る。
・Miles Davis:Seven Steps to Heaven (1963)
Basin Street Blues (a) (1963.4.16)
Seven Steps to Heaven (c) (1963.5.14)
I Fall in Love Too Easily (a)
So Near, So Far (c)
Baby, Won’t You Please Come Home? (a)
Joshua (c)
So Near, So Far (alternative version) (a)
Summer Night (b) (1963.4.17)
Personnel
Miles Davis (trumpet) (a, b, c)
Victor Feldman (piano) Cal. (a, b)
Herbie Hancock (piano) N.Y. (c)
George Coleman (Tenor Sax) (a)
Franck Butler (drums) Cal. (a, b)
Anthony Williams (drums) N.Y. (c)
Ron Carter (bass) (a, b, c)
いわゆるメンバーが入れ替わる過渡期のアルバムだが、ロスでの録音もニューヨークでの録音も、とにかくメンバーは音楽を楽しんでいることが手に取るようにわかる。マイルスの脱力のトランペットが終始美しい。
マイルスには正真正銘の明るさがあった。とりわけ演奏しているときの彼はそうだった。彼は演奏することを愛した。水面で跳ね飛ぶ水切りの石のように演奏した。彼にとって音楽は仕事ではなかった。彼は私たちにもそう感じてほしくないと思っていた。そのとおりだった。音楽は仕事と感じるにはあまりに楽しすぎた。
~同上書P85
しかしながら、天国への階段は7つではなく8つだろう。
そして、ようやく9つ目で人は悟るのだ。