トーマス・マンの、退廃美を実に具体的に描く方法に感動する。
ある日の午後、アシェンバハは美しい少年を追って病める都のごたごたした中心部に入って行った。迷宮の裏町や運河や橋や小さい広場はどれもみなよく似ているために方向感覚さえ失いながら、ひたすら恋い慕う少年の姿を見失わないことだけを考えていた。あさましいほどの用心のために、塀に身体を押しつけたり、前を行くひとの背中に隠れたりしながら、感情と不断の緊張とが彼の肉体や精神に加えた疲労を、彼はながいあいだ意識せずにいた。タジオはいつも一行のしんがりであった。狭い場所に来るといつも女の家庭教師と尼僧ふうの服装をした姉たちを先に行かせて、ぶらぶら歩きながら時折、頭をめぐらして肩越しにアシェンバハがついて来るのを、あの独特に曇った灰色の眼で確かめるのであった。彼はアシェンバハを見た。そしてそのことをアシェンバハにそれと知らせなかった。
~トーマス・マン/圓子修平訳「ベニスに死す」(集英社文庫)P127-128
マンの筆致はあまりに詳細で精緻で、読む側が恥ずかしくなるほどだ。
しかし、人間の深層を描き出すのにこれほど的を射た方法はない。
そして、この作品を読むたびに、見事な映画として再生させたルキノ・ヴィスコンティの類稀なる手腕にまた感動する。
ここでは私の昔からのあこがれを実現することが重要だったのだ。審美的なあこがれを持つ芸術家とその生活とのあいだに介在しうる対立、あきらかに歴史を超えたその存在と彼の中産階級市民の身分への参加とのあいだに介在しうる不調和というテーマはつねに私をひきつけてきた。このテーマに取り組むに充分な私自身の成熟の時を待っていた。
~「ヴィスコンティ集成 退廃の美しさに彩られた孤独の肖像」(フィルムアート社)P192
これぞ仮と真の葛藤の顕現と言えまいか。あえてわかりやすく物質と精神と言い換えても良いかもしれない。最晩年、ヴィスコンティは語る。
人間は、その熱情をかたむけて、偽りの理想をかかげて、どこにたどりついたのだろうか。崩壊に瀕している世界にだ。疎外、悪の数々、不毛にだ。抑制能力がない状態にだ。
(「エウロペーオ」1974年11月21日号)
~同上書P209
人間がたどりついた不毛の世界を、それを超える手段は真であり、善であり、また美であるといわんばかりの、息苦しくなるほどの美しさに溢れる映像に僕は感応する。否、映像に限らない。そこに付されたグスタフ・マーラーの音楽がどれほど感化に貢献していることか。
短いアダージェットは世界を席巻した。しかし、アダージェットのみをして「ベニスに死す」を語るなかれ。観る者は、第1楽章「葬送行進曲」はもちろんのこと、第4楽章アダージェットに引き継がれる(映画においては聴くことのできない、想像するしかない)終楽章の陽気な、明朗な舞踏にこそこの仮の、不毛な退廃世界を破壊し、真の調和世界を創造できる術があるのだと悟るのである。
・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
ジェームス・チェンバース(ホルン)
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1963.1.7録音)
いまだマーラーの音楽が耳慣れなかった60年代前半に果敢な挑戦をしたバーンスタインの慧眼。(浪漫とうねりという意味で)さすがに後年のウィーン・フィルとの再録音盤の後塵を拝するというものの血気溢れる推進力の高い演奏に、バーンスタインのマーラー愛を思う。個人的には、第3楽章スケルツォから終楽章ロンドに至る第2部が聴きもの。
なぜなら認識は、パイドロスよ、威厳も厳格さももたないからだ。認識は対象を知り、理解し、許し、断乎たる態度も形式ももたないからだ。認識は深淵に共感する。いや、認識こそ深淵なのだ。それゆえわれわれは断々乎として認識を拒絶する。そして今後われわれの努力はただひたすら美に向かう。すなわち単純、偉大、新しい厳格さ、第二の天真、そして形式に向うのだ。しかし形式と天真とは陶酔と欲情とに導き、高貴な人間をおそらくは、彼自身の美しい厳格さが恥ずべきものとして拒否するような、おぞましい感情の放埓への導くのだ。
~トーマス・マン/圓子修平訳「ベニスに死す」(集英社文庫)P131-132
アシェンバハの空想通り、美を損なう、おぞましい似非の陽気さに相変わらず人間は翻弄される。嗚呼、終楽章ロンドの戯れよ。