ブルックナーはベートーヴェンとシューベルトを深く敬愛していた。歌曲では『冬の旅』の第1曲『おやすみ』を特に好んだと言われる。ブルックナーが所有していた楽譜のうち、シューベルトのものは歌曲のほかに、第16番と第21番のピアノ・ソナタがあった。ブルックナーは『未完成交響曲』について、後世の『トリスタン』に通じるものがあると語っている。
~田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P24
俗世間では変人扱いされたブルックナーも、芸術的審美眼においてはやはり別格のものがあったようだ。「冬の旅」はもちろんのこと、シューベルトのソナタの第16番もまた21番も屈指の名作だ。殊に最晩年の第21番の、死の淵を彷徨うが如くの、黄泉の国からの便りのような、不気味とも清らかともとれる、暗澹たる第1楽章モルト・モデラートは、筆舌に尽くし難い作品。何より内田光子の弾くそれは、人後に落ちない最愛のもの。ほとんど死を目前にした作曲家本人が、まさに本性を投影しつつ奏したものではないのかと思えるほどの純化(しかしながら、この音楽は輪廻の中にあり、永遠に繰り返されるように思われるほど長尺だ)。
シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960
・3つのピアノ小品D.946
内田光子(ピアノ)(1997.5録音)
あるいは、ソナタ第16番の、同じく内田光子による演奏は、弱音と強音のバランスに優れ、しかも漸強、漸弱の妙が他を圧倒する。シューベルトの静けさと安寧、そして不安と恐怖が錯綜する心をこれほど見事に表現できた例が他にあるのかどうなのか。殊に第1楽章モデラートが素晴らしく、また、第2楽章アンダンテ,ポコ・モッソの可憐な響きは、ほとんどブルックナーのロリータ・コンプレックスを刺激する(?)かのようにシンプルで愛らしい。
シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第16番イ短調D.845
・ピアノ・ソナタ第9番ロ長調D.575
内田光子(ピアノ)(1998.8録音)
ウィーンのムジークフェラインで録音された、シューベルト生誕200年を記念しての一連の演奏は、どれもが絶品。中でも、2つのピアノ小品D.946は、作品の深遠さも手伝って、内田光子の本領発揮の、慈悲深さ。第2番変ホ長調が極めつけ!!
この上ない感激は、この上ない滑稽と紙一重だ。それはこの上なく深い知恵がどうしようもない愚かさに近いのとおなじだ。だれもが信念をもってこの世に対する。それは理性や知識にはるかに優る。というのもなにごとかを理解するにはまず信じなければならないからだ。信念は弱い理性がその最初の杭を立てるべき土台である。理性は分析された信念にほかならない。
(1824年3月28日)
~喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P212
深層を抉る27歳とは思えぬ日記に、彼が若くして死を迎えなければならなかった理由を見る。「信」こそがすべて。内田光子のシューベルトの美しさは、「信」を前提にし、陰陽のコントラストを曖昧にし、一つと見るからだろう。