ペライア J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲BWV988(2000.7録音)

詩はかくして応答であることは明らかである—まったく不満足であるが―しかしやはり、自然の、抑制せられぬ要求に対する応答であることは明らかである。人間にして変りがないならば、詩のない時代は在り得なかった。その最初の要素は天上の美—地上の形態のいかなる今までの配置によってもその魂に与えられないところの美—恐らくこれらの形態のいかなる結合も完全に作り得ないような美に対する渇望である。その第二の要素は既に見られるところのあの美の形態の間の新しい結合によって―或は我々の先人が、同様な幻想を追い求めて、すでに整えたところのあの結合のさらに新しい結合によって、この渇望を癒そうとする試みである。我々はそれ故に明らかに新奇、独創、案出、想像、即ち最後に美の創造が(と言うのはここで使われているような言葉は類語であるから、)あらゆる詩の本質であると推論する。
「詩の真の目的」(1842)
阿部保訳「ポー詩集」(新潮文庫)P96

いわゆる「止揚」がいかに大切か。
過去にとらわれず、とはいえ、過去は参考にし、いかに新たな創造を生み出すか。凡人には想像不可能な内的発動がポーのような天才にはあるのだろう。詩に限らず芸術の真の目的はそこにある。

音楽の喜びが身体をリズムに乗せて踊るような動きを伴なうのに対して、絵画の喜びのほうはむしろ(アクション・ペインティングのような場合があるにしても)静思・瞑想へとわれわれを誘う。直接性と間接性の差がそのような形で現われると見ていいかもしれない。
〈美的衝迫〉の表出は、音楽において直接的であり、絵画において間接的であるというのは、比喩以上に、こうした感覚作用の事実からも言える。音楽的表出の原型はやはり叫びであるし、絵画的表出の原型は手型、足型の刻印であろう。

「〈美〉の現われる場所」
辻邦生編「絵と音の対話」(音楽之友社)P208-209

音楽と絵画についての考察はその通りだろうが、逆もまた真なりだと僕は思う。音楽の中には確かにダンスがある。同時に静謐な瞑想もあろう。
バッハ晩年の大作「ゴルトベルク変奏曲」BWV988を思った。
中でも、ペライアが20世紀最後の年に録音した演奏が実に「リズムに乗せて踊るような動きを伴ない」、同時に「静思・瞑想へとわれわれを誘う」要素に溢れているのである。僕は少なくとも最初に聴いたときにはその点には気づかなかった。
時を経て、久しぶりに耳にしたときの衝撃よ。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
マレイ・ペライア(ピアノ)(2000.7.9-14録音)

音盤ケースには、「多くのリスナーがいまだグレン・グールドの1955年録音盤を『ゴルトベルク』のスタンダードと信じる中、ついにそれを超えたのがペライアだった」というニューヨーク・タイムズの手放しの賛辞が貼られているけれど、実際にはそれほどでもないと最初僕は正直思った。グールドの衝撃は、1981年の再録音盤のそれと同様永遠不滅のものゆえに、そのバーを簡単に越えることは誰にもできまいと僕は信じていた(多くのグールド・フリークが同様の考えだろう)。しかし、それが誰のどの録音だろうと当然賛否はあり、グールドのあれをこけにして貶める人もたくさんある。なるほど、グールドの「ゴルトベルク」にも舞踏と瞑想の両側面が確かにある(広義では誰のどんな演奏にも、あるいは誰のどんな音楽作品にも舞踏と瞑想の双方は存在する)。

ただ、今の僕にとってマレイ・ペライアのこの「ゴルトベルク変奏曲」は宝だ。グールドとの比較は横に置いて、単独で虚心に耳を傾けると、晩年のバッハの、勤勉に人生を歩んできたその経験から生まれた吉凶禍福(?)含めた大いなるドラマがある。そして、何にせよ最後は笑って歌うのだ。楽しく分かち合い、共に歩むのだ。個人的な趣味・嗜好の都合で第26変奏以降が肝。あまりに美しく、あまりに喜びに溢れ、心が弾む(少なくともここを聴いている瞬間、僕はグレン・グールドのそれを忘れていた)。

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