人間である以上完全はない。
不完全であるからこそ、そこに進歩があり、発展、向上があるのだと思う。
楽聖ベートーヴェンが偉大であり、帝王マイルス・デイヴィスが尊敬に価するのは、過去心にとらわれず、常に前を見続け、進歩、発展を目指したからだ。もちろん当人はその意識すらなかったことだろう。変化を嘱望し、新たな挑戦を自身に課していたところが凡人とは異なるところだ。
マイルスはつねに前方を見ており、けっして過去を振り返らなかった。1984年、スペインのジャーナリストに、クインテットを再結成し、ロン、トニー、ウェイン、ハービーと一緒にツアーをしようと思ったことはないのかと訊かれて、彼は「いや、最初の女と何度も寝るようなもんだからな」と答えた。いったん何かをやり終えたら、次は別の新しい何かに挑戦するしかない、と彼は言いたかったのだろう。
~川嶋文丸訳「ハービー・ハンコック自伝 新しいジャズの可能性を追う旅」(DU BOOKS)P332
ハンコックの回想は実に示唆に富んでいる。
マイルスから生き方、音楽の方法を学び、吸収した彼にとって、一箇所に留まることは「死」を意味した。それこそ常に挑戦することが彼のモットーだったのだ。
探求し続けているかぎり、何をやろうとも活力あふれる生き生きしたものになる。人はさまざまな理由—批判されることへの恐れ、失敗することへの恐れ、期待外れになることへの恐れ―で探求することを止める。しかし自分が進んでいる方向が気に入らなければ、いつでも方向転換することができるのだ。
~同上書P340
実にシンプルな思考にあらためて目から鱗が落ちる。
ブルーノート時代、すなわちいわゆるモダン・ジャズの世界を縦横に駆け抜けんとしていたハンコックの楽曲にも当然常に新たなチャレンジがある。そういう作品は時代を経ても実に普遍的だ。
それより数年前、私はトニー・ウィリアムスにドイツの前衛音楽作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのことを教えてもらい、電子音楽を聴き始めた。トニーは長年にわたって私の音楽的地平を広げてくれた。アルバン・ベルク、ジョン・ケージ、パウル・ヒンデミットなどを聴くようになったのも彼の影響だった。私はいつも彼に「いま何を聴いているんだ?」と訊いていた。ある日、彼がこれを聴いていると言ってかけてくれたレコードが、シュトックハウゼンが初めて発表した偉大な電子音楽作品のひとつ〈少年の歌〉だった。
~同上書P125
ハービー・ハンコックの好奇心の旺盛さ、そして心の器の大きさを思う。
すべてがハービー・ハンコックによる作曲。さすがにブルーノート時代のコンピレーションだけあり、ハズレなしの選曲。本当に類稀な作曲センスだと思う。中でも、まるでミニマル・ミュージックのような(現代音楽の影響か?)1963年の”Succotash”が素晴らしい。耳について離れないリズムの応酬と、いつまでも終わることにないだろうパルスにとにかく心が躍る。いわゆるマイルス黄金クインテットに属していた時期に書かれているのだからマイルスの影響も当然あろうが、それ以上に外部の、ジャンルを超えた音楽作品からのインスピレーションに溢れる傑作だと思う。
ジャズと同じく、人生においても人との出会いは大いなる美をもたらしてくれる。私は幸運にも、長年にわたり、素晴らしい家族、友人、ミュージシャンに恵まれてきた。彼らのおかげで私の人生は豊かなものになった。その数はあまりに多く、限られたページ数で全員の名前を挙げることはできない。
~同上書P393
ハンコックの最後の謝辞が素敵だ。