ミケランジェリがレコードをあまり入れたがらないというのは、考えてみると、興味深い主題である。かつて彼に師事したことがあるというマルタ・アルゲリッチ―私の考えでは、数多くの若い鍵盤の俊英の中でも、とびきり才能と音楽性に恵まれた、文句のつけようのないピアニスト!—がいつか東京に来た時、さる人の好意で私は彼女としばらく話をする機会をもったのだが、その席であれこれのピアニストについておしゃべりしているうち、たまたま、ミケランジェリの話になった。「ミケランジェリという人は、完璧といえば、およそ考えられる限り最も完璧なところまでもっていってからでないと演奏しない人だ。それが彼の偉さであり、同時に欠点ではないかしら。一面では本当に素晴らしいのだけれど、もう一面からいうと、結局同じ曲はいつだって同じようにしかひかないことになるのだから。」
そう、私たちが、とどのつまりが、レコードのついて感じる不満の一つが、やっぱりここにある。私たちはレコードを感激してきくのだが、何回もくり返しきいてみているうちに、いつも同じだということが、いつかは不満に思えてくるのだ。
~「吉田秀和全集6 ピアニストについて」(白水社)P113
ミケランジェリにまつわるアルゲリッチの見解が的を射ていて素晴らしい。
この後吉田さんは、自己批判に厳しい完璧主義者ミケランジェリの、くり返し聴かれる録音というものの性質に対する不信こそが、彼のレコード録音の少ない理由の一つだろうと推測しているが、これまた「なるほど!」と納得させられた。
師の魅力でもあり、また欠点でもあったその側面を、アルゲリッチは自ら超える。
この女性は公衆の心を掴むに充分な魅力をもっているのだが、そのうえ、音楽がまったく独特である。彼女は肉体の中に自分の音楽をもっている。ドイツ風にいえば、urumusikalischなのだ。頭(知性)も胸(心)も、肉体の一部であって、それと対立したり、それから別のところに逃れ、独立しようとするものではない。だから、ときどき彼女の演奏にはすごいむらもあるが、それだけ良い時は全体的な、一つの絶対的な音楽となる。それはまた、一つの曲の中でも、成功した個所とそうでない個所とが同居することにも導いてゆく。しかし、いつだって彼女はらくらくと、ごく自然な音楽をしていて、偽るということがない。
~同上書P236
1967年、ベルリンで初めて聴いたマルタ・アルゲリッチを評して吉田さんはそう書いた。「肉体の中に音楽をもっている」という表現がこれまた言い得て妙だ。
ショパン:
・ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品35
・アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ作品22
・スケルツォ第2番変ロ短調作品31
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)(1974.7録音)
この当時のアルゲリッチの演奏は、少なくとも録音を聴く限りどれもが普遍的な価値を持つ。ミケランジェリの場合と同様、成功も失敗(?)もあるものの、それがまた永遠の魅力として録音に刻印されているのだから堪らない。
ソナタ第2番は、第1楽章序奏グラーヴェから何と荘重で、それでいて何と軽やかな響きを持つのだろうか。あるいは主部の実に豊潤で、官能的な音! そして、颯爽たる第2楽章スケルツォを経て、第3楽章葬送行進曲の躍動(?)、続く終楽章プレストに垣間見える大いなる自然との共生よ(讃歌だ!)。
さらに、その音調は、そのまま同じ調をもつ最後のスケルツォ第2番にも引き継がれる。特に堂々たる冒頭の主題が再現される際の喜び!! 文字通り彼女のピアノは偽ることがない。