ミケランジェリのショパン。
わずかに残された諸曲はいつ聴いても不思議に新鮮で、まったく飽きることがない。ショパンの傑作たるマズルカの憂愁ももちろんそうだが、まるでショパン当人の故郷への感傷が憑依したかのようなリアル感に僕は言葉を失う。完璧なテクニックと情感を込めて、しかし冷徹に(?)歌われる舞曲のあまりの現実的な美しさ。
ABMのショパン演奏は、エキセントリックな誇張と、作曲に対する妥協なき誠実さとの間の緊張からエネルギーを引き出していると感じとれる。それでも彼の演奏にはあらゆる度合いの誇張が見られる。
~コード・ガーベン著/蔵原順子訳「ミケランジェリ ある天才との綱渡り」(アルファベータ)P55
コード・ガーベンの指摘は実に的を射ている。
そして彼は、ショパンの弟子であったヴィルヘルム・フォン・レンツのショパンに自身の演奏に関する報告の中にミケランジェリの感性、方法を読み取り、次のようにも書く。
我々は、彼の演奏で、デカダンスと退廃のぎりぎりまで押しやられたパリのサロンの「夢の国」を感じるし、革命の力を持った1830年代のポーランドをも感じる。当時、ヨーロッパ中が「若いポーランド」と共に苦しんでいた。共感の波が自由を求める闘争と世界を結び、やがてその闘争はドイツの地で繰り返されることになる。
ABMは、女性らしさから荒々しい農夫の踊りにまでいたる、果てしないほど幅広いマズルカの世界を表現することに成功している。
~同上書P53
エキセントリックといいながら(確かにそうだが、常軌を逸するほどではない)、ガーベンはミケランジェリのショパンをベタ褒めなのだ。
いずれも、今の時代からは考えられない、録音に数日、数週間を要した代物。
ショパンの諸曲は、ミュンヘンの科学アカデミー・プレナーザールに始まり、バイエルン音楽スタジオからヘラクレスザールに場所を移しての録音。
ガーベンのプロデュースによるシューベルト初期のソナタがまた素晴らしい。
10年余り後に自身が命を落とすことになろうとはこの時点でシューベルトは想像もしていなかっただろう、肯定的な響きの第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、弱冠20歳のシューベルトの決意表明たる確信に溢れているけれど、ここでのミケランジェリの表現は決して力任せではなく、脱力の、しかし芯からの喜びに満ちる劇的なものだ。美しいのは、第2楽章アレグレット・クワジ・アンダンティーノの無骨ながら抒情的な主題の透明さ。音楽はどこまでも飛翔する。そして、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェに見る音の奔流。堪らない。