
モノーラル録音の、外に拡がらない、一点集中の、音塊が強烈な火花を散らして放出される様子に、これぞフルトヴェングラーを聴く醍醐味だと今さらながら思った。
戦前の、欧州に不穏な空気が漂う最中に録音されたものも、そしてまた戦後の、ようやく非ナチ化裁判に勝訴し、喜びの心境で復帰した頃に録音されたものも、一様にしてフルトヴェングラーの音楽が見事に刻印される。
例えば、ロンドン・フィルとのブラームス。
評論家諸氏にも決して評価が高いとは言えない、ほとんど無視されているような戦後間もなくのデッカ録音も間違いなくフルトヴェングラーの創造する音楽の魔力を放つ。それは、生ぬるいものではなく、巨匠のライヴ録音を髣髴とさせる力が漲るものだ。
バッハの音楽は、その複雑な対位法とあいまって、ヴァーグナーの「革命的な」「進歩的な」潮流の基盤となっているが、ブラームスは技法でのインスピレーションを初期バロックに求め、メロディーのインスピレーションを通俗的なドイツの旋律や民謡に求めた。フルトヴェングラーは、ブラームスのこうした方向での探求に格別の敬意を払っていた。文化的にも個人的にも危機の時代に、単なる基盤でなく、民族的基盤に立ち戻った作曲家がいたとしたら、それはヨハネス・ブラームスに他ならない。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P358
初期バロックとドイツの民族音楽を掛け合わせた方法に、フルトヴェングラーらしい先鋭なる解釈、すなわち根源的な鼓動を、いわゆるパルスを相乗した画期的なスタイルは、70余年を経てもまったく新しい。
ちなみに、
フルトヴェングラーは「4分間のテイクで小間切れに演奏して録音する、または、こまかい欠点を修正するために録音し直す、さらに「今より良い」かもしれないとの理由だけで録音し直すのをひどく嫌った、
~同上書P220
そうだ。しかし、それにもかかわらず、ここに収録された別テイク(第1楽章から第3楽章の断片)は特筆に価するものだ。興に乗るフルトヴェングラー、というより、深沈と心を鎮め、ブラームスの音楽に対峙するフルトヴェングラーの魂からの表現がそこかしこに聴こえるのは気のせいなのかどうなのか。高揚する音楽の密度にあらためて僕は感激する。
ロンドンはキングズウェイ・ホールでの録音。
一方、戦前のチャイコフスキーも、仄暗い、いかにもドイツ風の表現が当時の欧州の空気感を見事に醸していて、僕の愛聴盤の一つ。
古い録音を超えて感じられる第1楽章主部アレグロ・ノン・トロッポのただならぬ生気よ。それこそぶつ切りの録音セッションだとは思えない「つながり」と意味深さが垣間見えるチャイコフスキーはフルトヴェングラーならではの歌。特別なるは、第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの推進力と終楽章アダージョ・ラメントーソの(文字通り)嘆き!!(第2楽章アレグロ・コン・グラツィアはポルタメントが多用され、少々古臭い印象)
何がこのレコードをこれほど特別なものにしたのか。それは憐れみの気分がないこと、さらにひどい例をあげれば、数多くの著名な指揮者がこの作品の基調となる「感情」を表現するための口実として用いるような、ある種の放縦さがないことだ。
~同上書P282
憐れみも放縦さもないだろうが、ここには真摯な共感があり、共鳴があると僕は思う。
[…] 戦前、フルトヴェングラーの録音と二分した天下の「悲愴」交響曲。 […]