
ボロディン弦楽四重奏団の奏するショスタコーヴィチは、録音が新しくなるたびに、鬱積された、ソヴィエト的な雰囲気、暗澹たる色合い、音調がスポイルされていくように思う(録音環境のせいもたぶんにあるのかも)。聴き手がショスタコーヴィチのいかにも社会主義リアリズムに迎合した二枚舌的思考に同期したいのなら最初のものを選択すべきだし、一方で、ソヴィエト色を排したより現代的な演奏を望むなら最も新しいものを聴くと良い。
最初の弦楽四重奏曲を作曲するにあたって、私は子ども時代の幻影を、どこか素朴な晴れやかな春のような気分を表現したいと思った。
(小林久枝訳)
~ショスタコービッチ 弦楽四重奏曲集第1巻(全音楽譜出版社)P111
作曲者の後の回想が当てになるのかどうかはわからない。
しかしながら、確かに最初の弦楽四重奏曲、特に第1楽章モデラートにはそういう懐古的な雰囲気が終始漂う。ボロディン弦楽四重奏団の演奏は、実に軽く、幼年時代の思い出が淡く語られるようでとても美しい。
最後の弦楽四重奏曲にまつわる解析、あるいは都市伝説的(?)意味づけなどは愛好家諸氏が興味深い観点で様々な論を繰り広げているのでそちらに譲るとして、そもそもこの全楽章アダージョで、かつすべての楽章が変ホ短調という特異な形の音楽は、大方の指摘通りショスタコーヴィチが死を意識し、自身への鎮魂曲として書き上げたものであるのに違いない。やはり鍵となるのは最長の第1楽章アダージョであろうか。
ただしこの音楽は、個人的には6部構成の単一楽章の作品として理解したいところ。バッハなど古の作曲家が6つの作品を一つの単位として考えていたことはよく知られているが、ありきたりの観点から述べると死を目前にした作曲家が、過去の天才たちに追随せんと形を整え、しかも余分な、不自然な揺れを排除しつつ、世界が一つになることを永遠の夢としたものを創造しようとしたとも考えられなくはない。
ここでのボロディン弦楽四重奏団の演奏は、情も何もない、実に冷静で淡い音楽だ。