若杉弘指揮柴田南雄「ソプラノと室内楽のための『夜に詠める歌』」(1978録音)ほかを聴いて思ふ

music_of_minao_shibata679岸田今日子の声は、不思議に聴く者の魂を鼓舞する。
わずか24歳で逝った夭折の詩人、立原道造の詩を朗読する岸田の声は何だか鬼気迫る。

夜だ、すべてがやすんでゐる、ひとつのあかりの下に、湯沸しをうたはせてゐる炭火のほとりに―そのとき、不幸な「瞬間の追憶」すらが、かぎりない慰めである。耳のなかでながくつづく木精のやうに、心のなかで、おそろしいまでに結晶した「あの瞬間」が、しかし任意の「あの瞬間が」、ありありとかへつて来る。
「夜に詠める歌」
NCS-624-6ライナーノーツ

ここでの柴田南雄の音楽は限りなく神秘的で透明で、岸田の声と見事に調和する。
ヴァイブラフォンの輝き、ヴィオラの混沌、夜は極めて美しい。

ところで、高橋悠治と柴田南雄の、1976年の対談が面白い。

幾つかドイツの新聞を見せてもらった中で特に覚えているのは、vegetativということばで批評されてるのね。つまり、植物的というか、営養成長的というか、要するに生殖的reproduktivということばの対語ですね。西洋音楽の二掛ける二式の発展は生殖的・再生産的、と言えるけど、そうでない成長的・個体的な発展、結局東洋的な特質をヴェゲタテイフといったわけだよね。
だから諸井さんは、われわれがいかに西洋の作曲原理を学びとっても、日本人に特有なものは出てくるんだからといって、当時一部の人がやってたような、日本の民族音楽の素材を直接使うことには反対だったね。しかし、今の“ヴェゲタティフ”というのは日本的な情調とか情感というよりも、日本的な音楽の発想法、構成法にかかわっているんだね。
小沼純一編「高橋悠治 対談選」(ちくま学芸文庫)P129-130

なるほど「ヴェゲタティフ」とはその通りかも。ラテン語で「ヴェゲトゥス」は完全を意味するが、どれほど西欧から様々を学びとろうとしても、僕たち日本人に内在する根本は揺るがず、その情緒は音楽の中にも必ず投影されるというのである。
ちなみに、柴田南雄は次のようにも書いている。

しかし、清・紫の二女史の日記が、はからずもその冒頭で日本の湿気と音の相関関係に触れているのがおもしろい。それに、とにかく昔の人は音に対する思いやりが深かったのだ。ただ、「源氏物語」と「枕草子」とでは、音楽の記述に関する限りは大差がある。「源氏」五十四帖は楽器のこと演奏のこと曲のことでみちみちており、「枕草子」にも扱われてはいるものの清少納言の音楽への関心は紫式部のそれよりはずっと淡い。
(「枕草子」と「紫式部日記」)
柴田南雄著「日本の音を聴く」(青土社)P36

古来日本人は音に対する思いやりが深かったのだと。
柴田南雄の音楽を得て、立原道造の詩が一層輝く。

柴田南雄の音楽
・ソプラノと室内楽のための「夜に詠める歌」(1973)(1978.7.8録音)
・優しき歌第二(1959)(1970.2.15録音)
・優しき歌(1948)(1972.10.14録音)
・3つの無伴奏混声合唱曲(1948)(1978.7.18録音)
岸田今日子(朗読)
伊藤叔(ソプラノ)
小林健次(ヴィオラ、ヴァイオリン)
村井祐児(クラリネット、バス・クラリネット)
高橋美智子(ヴァイブラフォン)
若杉弘(指揮)
中森真知子(アルト・ソロ)
中沢桂(ソプラノ)
三浦洋一(ピアノ)
田中信昭指揮東京混声合唱団

「優しき歌」第6曲「樹木の影に」のピアノ伴奏はプログレッシブ・ロックを髣髴とさせる先鋭的で静かな詩情。
あるいは東京混声合唱団による「無伴奏混声合唱曲」のあまりの美しさに感動。自然を歌う北原白秋の詩が一層輝く。

遠きもの
まず揺れて、
つぎつぎに、
目に揺れて、
揺れくるもの、
風なりと思う間もなし、
我いよよ揺られはじめぬ。

柴田南雄生誕100年、そして没後20年の記念すべき年に・・・。

数年前、万博の鉄鋼館で各国の作曲家を集めて行われたシンポジウムのテーマが「だれのために作曲するのか」という問題にしぼられた、ということはじつに象徴的だったと思う。オーストラリアの作曲家のように「万人に喜ばれ、愛される音楽」というような天下泰平な答えを出した人もあったようだが、そこでの高橋悠治の意見は断然、変わっている。・・・(中略)・・・―「高橋はまったく異色な発言をして参会者に大きな衝撃を与えた。彼によれば、人類は早晩滅びるだろう。人類の後から来る知性のために残すものとしては、抽象的であり、情動的(自己保存的であり外に向かって開かれた、という意味)であり、かつ記号の系である音楽が最も適当である。・・・(後略)」―
「現代音楽雑感/西洋音楽の終焉?」
小沼純一編「柴田南雄著作集Ⅱ」(国書刊行会)P228-229

40余年を経た今も人類は滅びてはいないが、高橋のこの言はあながち間違っていないように思う。この意見をユニークとした柴田南雄が存命だったなら今の音楽を何と言うのだろう?

 

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3 COMMENTS

雅之

・・・・・・209Bi はごくわずかにα崩壊により崩壊するが、その半減期は2003年に測定された値で (1.9 ± 0.2) × 1019 年(≒ 1700京〜2100京年)である。この値は現在の宇宙年齢の9桁以上も長い。・・・・・・Wikipedia「ビスマス」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

1700京〜2100京年後、音楽は、そして人類はどこに向かい、どうなっているのでしょう。

久々に・・・。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

音曲、神、宇宙でさえこれに同じ。ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

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岡本 浩和

>雅之様

>音曲、神、宇宙でさえこれに同じ。ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の儌を観る。
此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。
「道徳経上篇」

それにしてもビスマスの永遠性に驚きました。
人間含め人間の創造物などというのは塵のようなものですね。
ありがとうございます。

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