マケラ指揮フランクフルト放送響 ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」(2019.11.1Live)

この3年は実演に触れる機会がぐんと減った。コロナ禍だからかと問う方もいらっしゃるが、決してそうではない。いろいろな意味で音楽を聴くことに対する優先順位が下がったのである。もちろん愛好という意味では以前と変わりなく、毎日のように音盤は耳にしているのだけれど。

生きる上で何が最重要か。
それはもちろん命であり、命を育むことである。それも自分自身の命に限ったことではない。そこがミソ。意識がコペルニクス的転回を示したとき、まさにパラダイム・シフトが起こったということだ。

音楽シーンもコロナ禍前の活気を取り戻しつつあるようで、今年もたくさんのコンサートが開催されたようだ。以前のように頻繁に足を運んでいない僕は今の状況にまったくもって疎い。音楽情報すらほとんどシャットアウトしているような状況なので何も知らないと言っても過言ではない。そんな中で小耳にはさんだのが、6月にサントリーホールで開かれたクラウス・マケラ指揮東京都響定期演奏会が実に素晴らしかったという話。プログラムもショスタコーヴィチの「レニングラード」交響曲ということもあり、こればかりはホールの上手2階のいつもの席から俯瞰したかったと後悔していたところ、Youtubeで数年前のhr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)との演奏が偶然上がって来たので観たところ思わず釘付け。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」(1941)
クラウス・マケラ指揮フランクフルト放送交響楽団(2019.11.1Live)

アルテ・オーパーでの実況(聴衆にユーリ・テミルカーノフに似た紳士が映るが気のせいか?)。僕はこの若い指揮者のことを当然知らなかった。
鮮明な映像と分離の良い音響だけを聴いていると、指揮しているのが何とも童顔の若き青年だとは到底思えない、それでいて屈託のない、堂々たるもの。第1楽章アレグレットなど、コーダ手前からテンポをグンと落とし、後ろ髪を引かれるような印象の人類の主題の回帰がまるで作曲者の生まれ変わりではないのかと思わせるほどの真実味を帯びる。第2楽章モデラートのポジティブな憂愁、そして時間を正確に刻む時計のようなリズム感からは、この指揮者が単に技術的に優れているだけでなく、類い稀なセンスも持ち合わせていることがわかって興味深い。
そして、第3楽章冒頭アダージョの鮮烈美(うなる弦楽器の透明感はオケの力量であることに間違いはないのだが)!!何より中間部モデラート・リゾルートの進軍高らかな音響に高揚し、ラルゴに戻った瞬間の言葉にならないカタルシスよ。また、切れ目なく続く終楽章アレグロ・ノン・トロッポに潜む、いかにもショスタコーヴィチ的魑魅魍魎、阿鼻叫喚をこれほどまでにリアルにかつ正確に表現する手腕に恐れ入る。すべてはモデラート以降のあまりの肯定感!! 勝利の凱旋がここぞとばかりに響くクライマックス直前に欠伸をする女性が映るが、それもご愛嬌。
いやはや素晴らしい。2022年最後に良いものを観た。感謝。

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