
幼さを脱却せよ、友よ、目をさませ!
ジャン=ジャック・ルソー(「新エロイーズ」第5部書簡1)
ショーペンハウアーの著した「意志と表象としての世界」の扉にはそうある。
ルソーのいう「幼さ」とは、己に固執した「我」のことをいうのだろうか。
そして、ショーペンハウアーはいきなり次のように僕たちを諭すのだ。
「世界はわたしの表象Vorstellung(目前に見るように心に思い描くこと。心像、想像、観念など広い意味を含む)である」—
これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生えはじめているのである。哲学的思慮が芽生えたあかつきに、人間にとって明らかになり、確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし、大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、大地を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。
~ショーペンハウアー/西尾幹二訳「意志と表象としての世界I」(中公クラシックス)P5
すべては個人の思考が生み出したものだということ。人は結局自分が見たいようにしか見ないし、思いたいようにしか思わないもの。禅でいうところの、文字通り「一切唯心造」なり。
それならば、いかに「我」を超えるか。興味はその点に尽きる。
僕は今までもっと深刻な音楽だと思っていた。
耳にした演奏は、実に軽やかで、明朗で、これぞ音楽の真意なのではないかとさえ思えた。
もちろん「悪魔的な」印象の演奏が悪いというのではない。
情念が蠢く、いかにも人間らしい表現だって人を感化するという意味では他を冠絶するだろう。しかし、常に常に、それを楽天的に享受するのは難しい。
こういう演奏があっても良いものだ。
ロベルト・シューマンの「マンフレッド」序曲、そして「ライン」シンフォニー。
アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
ラヴェルを聴きたくて取り出したのに、シューマンに惹かれた。
1957年2月、ベルリンはグリューネヴァルト教会での録音ということは、いまだフルトヴェングラーの影響残るベルリン・フィルにあって、こうも音の色彩が違うのかと驚愕した。
クリュイタンスは天才だとあらためて思った。
僕はもともとシューマンの持つ暗い詩情が好きだった。いや、今も好きだ。
内側で沸々と燃えたぎる情念の発露に心が動いた。シューマンの音楽そのものは、確かにそういう表現を要求するものかもしれない。躁状態と鬱状態が交互に現われる、あの病的な音のマジックは、根っから躁鬱の彼にしか成すことのできない方法だろう。
しかし、譜面を見て、それを再生する方法は五万とあるのだ。
そして、どんな方法でもっても人に感動を与えることはできる。
何にせよ己の小さな了見で事を判断するのは狭量だ。
音楽そのものを判断なくしていかに自然体で受容するか。
それが実演であれ、録音であれ、あるいは、古いものであれ、新しいものであれ。
「ライン」シンフォニーの素晴らしさ。
大らかに外へと拡がる第1楽章冒頭から、シューマンの信念を思う(ブラームスはおそらくこの交響曲に着想を得て、自身の第3交響曲を生み出したのだろう)。
思念を込め、一方、過去の巨匠の癖を削ぎ落し、自身の音楽として再生する力量は他の誰にも優るとも劣らないものだ。
クリュイタンスのラヴェルは蒼白い。不健康だが、何だかデモーニッシュ(悪魔的)な、気怠い印象がある。もちろんそれが素晴らしいのだが。