ピエール・アンリ バレエ音楽「旅」(1967)

もう35年も昔のことになる。
ジョルジュ・ドンがミュージック・コンクレートをバックに異様なダンスを披露する映像を観たとき、僕は背筋が凍った。そのときはほとんど理解不能だった。
今はわかる。
まるで能の表現を借りたかのような、あの世とこの世の懸け橋たるミュージック・コンクレート。ここでの音楽の役割は極めて大きい。そして、それに合わせたモーリス・ベジャールの振付の凄まじさ、あるいはそれを踊るジョルジュ・ドンの天才。

あんなのはジョルジュ・ドンじゃない。
あれは本人の意思とは別にベジャールに無理強いされて踊らされているのよ。
といった人がいた。

映像を観ればわかる。そんなはずはない。
器の小さい人だと思った。
そういえば、世間には自分の理解を超えるものに対して一切受け付けないという人がいる。自分の向上、発展を妨げているようなものだ。もったいない。

音楽はピエール・アンリ。
そもそも前衛音楽がこんな形で次世代まで聴き継がれて来ていることが素晴らしい。

〈音楽の世界で、未来に向う積極的な確かなものを把みとるには、ただ一つの方法しかない。それは、芸術以前といわれる状態にまで立ち帰ることである〉たしかに、音は、曖昧な機能のなかに涸死している。音楽は、法式化された、ひからびた形骸の内に、その本来の使命を危うくしている。
音楽はうたであり、うたこそは愛である。
音楽が、儀式や行事に従属した、使用価値としての存在から解放されて、人間の内部に位置した日から今日まで、人間は何を繰返したのか。音楽が芸術の世界に身を置いたその日から・・・。

「武満徹著作集5」(新潮社)P223-224

1956年1月発表の「私の方法—ミュージック・コンクレートに就いて」の中で武満徹はそのように書いている。すべてはカテゴライズされる以前の姿に戻るべきなのだと思う。

・ピエール・アンリ:バレエ音楽「旅」(1967)

映像では第2曲「死後」の様子を見事に表現するが、あの世が美しいのか醜いのか、アンリの音楽は実に抽象的に、美醜を超えて彼岸を描くのである。

アンリがそのことを目指したのかどうかは知らない。
また、果たしてミュージック・コンクレートにまつわる今の世間の評価についても疎い。それでも、この電子音楽が、おそらく舞踊と一体になってこそ意味を持つものだったということはバレエを観れば理解できる。

しかし、一旦踊りと切り離し、音楽そのものを耳だけで堪能してみると、その意義はより明らかだ。ここには「うた」があり、また「愛」がある。あくまで個人的な感覚だけれど。

過去記事(2017年7月7日)
過去記事(2010年2月3日)


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