
ピエール・ブーレーズがジョン・ケージの70歳の誕生日を祝って出した手紙の冒頭にはこうある。
ラヴェルがレジオンドヌール勲章を断ったことについて、サティはこう言っていました。「ラヴェルは勲章を断るけれど、彼の音楽は勲章を受け入れる」と。つい最近叙勲を受けられることになった貴君に、「貴君の音楽はいまだ勲章を受け入れない」と僕は言えるでしょうか?
(1982年9月23日)
~ナティエ&ピアンチコフスキ編/笠羽映子訳「ブーレーズ/ケージ往復書簡1949-1982」(みすず書房)P250
その頃、芸術・文芸コマンドゥール勲章を授与されたケージへの、ブーレーズからの何とも洒落たお祝いの言葉だ。ここからは、長年音楽界の革命的同志として共に歩んだ二人の、実に腹を割った交流の様子が垣間見える。
ちなみに、同書簡でブーレーズは次のように締め括る。
僕は、蛮族の典型として、貴君を選び、貴君を推挙します。僕たちの文明が抱え込んでいる疲弊したもの、不必要になったもの、確実だと保証されたものを無造作に破壊してくれる人たちのモデルとしてです。僕たちは、そうした人たちなしには済ませられないのです。しかも、貴君の野蛮さにはユーモアが付き物で、だからこそ、野蛮さもまったくもって容赦可能になるわけです!
どうかいつまでも僕たちのためにその新鮮で溌溂とした宝を保って下さい。
~同上書P251
どんなに野蛮でもユーモアさえあれば確かに許せるものだ。
彼らがやったことは果たして冗談だったのかどうなのか?
残念ながら僕には答えを出すことは不可能だ。しかし、ブーレーズの音楽もケージの音楽も極めて辛辣で、また真摯であることには違いない。それにしても溌溂はともかく、新鮮とは!
音楽の原型は舞踊、あるいは信仰だろうが、聖俗どちらに傾くにせよ、シンプルで原始的な音像こそが人の心を打つのだとガウヴェルキによるケージ「チェロのための作品集」を聴いて思った。
果たしてこれは音楽と言えるのか?
美しくなければ音楽でないのかどうか?
現代音楽、前衛音楽に否定的な人たちは端っからこういうものを煙たがるのかもしれない。(文明人の視点から見れば確かに美しいとはいえないけれど)蛮族の音楽には、間違いなく人々の心、感性に響く何かがある。
ブーレーズは、自分自身はもちろんケージのことも蛮族扱いしているが、果たしていかに?
いかなる手段でもって未開民族を取りあつかわなければならないか、また、手段の「野蛮さ」はなんら気まま勝手のものではないということ、このことは、自分はヨーロッパ的な柔弱さのすべてを身につけていながら、コンゴとかその他の土地で野蛮人の支配者として踏みとどまざるをえない立場にひとたび追いこまれるときには、実際上明白となりうることである。
~原佑訳「ニーチェ全集13 権力への意志(下)」(ちくま学芸文庫)P430
ヨーロッパ的なブーレーズはいかにも蛮族の代表だとしても、東洋的センスの中で音楽を創造したケージは違うと僕は思う。
時折、ブーレーズやケージの音楽を聴きたくなる。
かつては耳をも塞ぎたくなるような苦手な分野だったけれど、大人になるにつれ、その何とも表現し難い味わいに虜になっていった。たぶんこういうものは実演で聴けばその本懐が手に取るようにわかり、真に魂にまで響くのだろうと思う。おそらく未来永劫消え去ることはない。