シェーファー デヤング ブーレーズ指揮ウィーン・フィル マーラー 交響曲第2番「復活」(2005.5-6録音)

私には、あとで破壊する喜びを持つために規則を作ろうと努力する、というような気質があります。これは発明することの自由と、発明のなかに規律を持つ必要性とのあいだの弁証法的な歩みなのです。この片方を他方から分離することは出来ません。規律なき発明は、言葉の最も字義通りの意味においてきわめてしばしば無能なものですが、発明なき規律もまたそれが何にも通用され得ないという理由で、やはり無能なのです。むずかしいのは、この二つの極のあいだに均衡を見出すこと、でなければ、せめて不断の交換作用を見出すことです。
(ピエール・ブーレーズ)
ピエール・ブーレーズ著/店村新次訳「意志と偶然―ドリエージュとの対話」(法政大学出版局)P95

ブーレーズは開拓、発明を旨としたが、一方で必ず規律を保とうとしたことがここからもわかる。しかも、相矛盾するような両者の均衡を保つことは「難しい」と明言している点が潔い。

後年になってブーレーズはマーラーを指揮するようになった。マーラーこそ発明と規律の均衡の中で苦心して労作を創出した人でなかったか。

無情なる「復活」交響曲。
第3楽章スケルツォを中心に、何とすっきりとした外観を保つ演奏だろうか。

・マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)
ミシェル・デヤング(メゾソプラノ)
ウィーン楽友協会合唱団(ヨハネス・プリンツ合唱指揮)
ライナー・コイシュニヒ(オルガン)
ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2005.5-6録音)

しかし、その演奏には、内燃するパッションがここぞとばかりにいつも宿る。
おそらくブーレーズの中で破壊した喜びを感知し、その思念を音楽そのものに投影させ、冷静な中に途轍もない創造の喜びが発露される。それはもはや第1楽章アレグロ・マエストーソの冒頭から垣間見え、終楽章の、特に合唱パートの登場を待ってついに爆発的な歓喜へと導かれるのである。

私の意味での進歩。—私もまた「自然への復帰」について語るが、もっともそれは、もともと帰ることではなく高まりゆくことである—高い、自由な、怖るべきものでさえある自然と自然性、大いなる課題と戯れる、戯れることの許されているそうした自然と自然性のうちへと高まりゆくことである・・・それを比喩で言えば、ナポレオンは私が会する意味での「自然への復帰」の一つであった(たとえば戦術のことにおいてin rebus tacticsそれどころか、軍人の知るとおり、戦略的なことにおいて)。—ところがルソー—この男はもともとどこへと帰ろうとしたのであろうか? ルソー、この最初の近代的人間は、理想主義者と下層民とを一身にそなえている。この男は、しまりのない虚栄としまりのない自己軽蔑に病んで、おのれ自身の外見を保つために、道徳的「品位」を必要とした。
「偶像の黄昏」
原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏/反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P142

ナポレオンを是とし、ルソーを否としたフリードリヒ・ニーチェの論考が正しいのかどうかは横に置く。私見では、ニーチェの反骨精神が、天邪鬼があえてその切り口で「自然回帰」を謳おうとしたのだろうが、自然のうちへと高まりゆくという意味でブーレーズの生み出すマーラーほど相応しいのはない。ここには自然がある。

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