
モーツァルトの交響曲第40番ト短調K.550。
もはや日常的にはほとんど聴くことはないのだけれど、人類の至宝の一つであり、ギリシャ彫刻のような屈指の名曲だと思う。
ギュンター・ヴァントの指揮するモーツァルトは、実に端正で、誠心誠意。音楽の隅から隅まで喜びに満ち、人生の充実感を味わうような余裕すら感じさせるものだ。
そういえばヴァントの音楽的な原体験は、モーツァルトの歌劇「魔笛」であり、モーツァルトの音楽をこよなく愛したというのは意外に知られていない事実かもしれない。彼のモーツァルトの録音は数限りあるが(それは、どうしても杓子定規な音楽のように聴こえなくもないのだが)、どれも名演奏だと僕は思う。
北ドイツ放送交響楽団とのハンブルクはムジークハレでのライヴ録音が素晴らしい。
特に悠揚たるテンポで進められる第1楽章モルト・アレグロと哀愁溢れる第2楽章アンダンテが出色。一転、速めのテンポで颯爽と紡がれる第3楽章メヌエットの疾風怒濤。そして、終楽章アレグロ・アッサイの内なる熱情。
オピッツを独奏に据えたシューマンの協奏曲も見事な出来栄え。
たとえば音楽に気高い身ぶりをさせるとします。よろしい、それによって私たちの感情は燃えたたせられます。しかし肝心なのは、理性を燃えたたせてくれるかどうかなのです。音楽は一見運動そのものと思われますが—それにもかかわらず私は、音楽というものは静寂主義に結びつくのではないかと疑っているのです。極端ないい方をしてよろしければ、私は音楽に対して政治的反感を抱いているのです。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(上巻)(新潮文庫)P240
音楽をこよなく愛するハンス・カストロプに対してのセテムブリーニの論はいかにも天邪鬼的ではあるが、ある意味当を得ているように思われる。理性は決して燃えたつものではないが、モーツァルトやシューマンの音楽の名演奏に立ち会うことは、まさに精神の、理性の振り切れた状態を喚起するのに等しいのだろうと僕は思う。
堂に入る第1楽章アレグロ・アフェットゥオーソの、特にオピッツが独奏を披露する瞬間の、管弦楽との以心伝心のやりとりの、ヴァントがここぞとばかりに咆える(燃える)ときの素晴らしさ。あるいは、第2楽章間奏曲のそれこそ「静寂主義」の最たるような音楽をオピッツとヴァントはいかにも悟性を刺激し、ドライヴする(そのことはアタッカで奏される終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェが証明するだろう)。ここにこそ僕たちの精神を癒す静寂が渦巻いているのだと思う。
それほどに彼らの演奏は中庸を、中点を示している。