カラヤンの「ツァラトゥストラ」を観て思ふ

r_strauss_zarathustra_karajan_1987最晩年の棒とはいえ、カラヤンのリヒャルト・シュトラウスは極めて鮮烈でエロティックだ(とても哲学的とはいえぬ)。ベルリン・フィルの機能性に富んだ演奏がそれに拍車をかける。例によってカラヤン風に編集された映像が鼻につくけれど、そこは目を瞑って(だったら映像で見る必要もないのだが・・・笑)音楽に集中すると良し。
とはいえ、ここには「思想」はあっても「真理」はない。あくまで人間が創造したもの。カラヤンの音楽を隅から隅まで丁寧に捉える眼力により見事な交響作品として聴く者の心を感化する。

例えば、「舞踏の歌」のちょっと前の、「病より癒えゆく者」の後半部―ちょうどゲネラルパウゼ後のトランペットのソロや木管楽器がテクニカルに絡む部分を聴いていると、カラヤンの音楽作りの完璧さ、それとシュトラウスのオーケストレーションの見事なセンスが手に取るようにわかって興味深い。ここは実に隠れたクライマックスだと僕は思う。
それと、「舞踏の歌」におけるシュピーラーのヴァイオリン・ソロ!・・・本当に巧い(巧過ぎるくらい)。

ツァラトゥストラが齢三十歳になったとき、彼は故郷とその湖を去って、山中に入った。ここで、ツァラトゥストラはおのれの精神と孤独を思うさま味わって、十年、倦むことがなかった。しかし、ついに心が変わり、―ある朝、東雲とともに起きたツァラトゥストラは、太陽のまえに出て、太陽にむかい、語った。
(高辻知義訳)

以下、偉大な星、太陽への感謝とそれに対しての人間の為す術のなさ・・・、そこへ自身が再度下山しなければならぬ決意が続く。
シュトラウスは、ニーチェの原作の冒頭に記されたこの言葉をスコアの冒頭に掲げる。すなわちここからリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」が始まるのである。

ベルリン市750周年記念オープニング・コンサート
・モーツァルト:ディヴェルティメント第17番ニ長調K.334
・R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30
レオン・シュピーラー(ヴァイオリン独奏)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1987.5.1Live)

ところで、カラヤンのモーツァルトは如何にもカラヤン風に味付けされた厚化粧のものだけれど、あくまで「思想」がない。そう、僕は思う。モーツァルトには「思想」がないのである。それをしっかり汲み取っているところがカラヤンの凄さ。シュトラウスの音楽と比較して思った。ロマン派以降の作曲家の作品には「思想」、つまり「思考」が刷り込まれ過ぎている。よって厳密に音楽そのものを堪能できない。
言葉と音楽の融合を志向したのはワーグナーだけれど、やっぱり相容れないものなのか。

「思想」とは人間の独断であり偏見。よって必ずぶつかる。
モーツァルトによって癒される所以は、「思想」がないことだと分かった(当時のフリーメイスンは思想ではなく体感だったのだと僕は考える。文明の発達に従い人間は左脳で考え過ぎるようになった。もっと直感を!)

 


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