キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管 マーラー 交響曲第7番(2018.5.28&29Live)

どこまで真実なのかわからないが、一つの虚構として読んでしまえばなかなか楽しめるもの。グスタフ・マーラーの人生が最も充実し、最も華やかなりし頃。アルマは書く。

ひとりごとをいう習慣も、もういまの私にはなくなっている。だから書くこともすくない。音楽的な感覚を働かして私はグスターフにかなり誠意を尽くしたし、彼もそのことを知っている。しかしなにもかもが昔のはなし。どんないやな思い出も私を苦しめない、彼の音楽をのぞいては、どんな思い出もけっして。ただひとつ私にとって真実なもの、それはすなわちグスターフ・マーラーだ。
(1906年6月—マイアーニッグ)

アルマ・マーラー=ウェルフェル/塚越敏・宮下啓三訳「わが愛の遍歴」(筑摩書房)P32

なんと意味深な表現であることか。自身を苦しめるのが夫の音楽であり、マーラーこそが真実なのだとするアルマの真意はどこにあったのか。
誠意は、行為ではなく心のあり方だ。彼ら二人が結果的に離れることになった理由の端緒が垣間見える。

アルマはまた次のようにも書く。

マーラーは、私を失うという苦しい不安のうちにあった生涯の最後の年に、ジークムント・フロイトのところにでかけていった。「あなたは、悩み苦しんだ哀れな婦人であったあなたの母を、どの女性にも求めておられるのだ」とフロイトは彼にいったが、さらに奥さんはご自分の父親を精神上の原理として求めていますともいった、まさにそのとおりであった。しかし私の父は生活に密着していた人であった。マーラーと知りあったころ、マーラーは世に知られた婦人たちから誘惑されていたが、それを別にすれば、純潔をたもっていた・・・彼は40歳、それは偶然のことではなかった。彼は独身の身で、女というものを恐れていた。「引きおろされる」という彼の不安は途方もないものだったので、彼は世間を、それゆえにまた女性を避けたのであった。
~同上書P37

ほとんど意図的であったアルマの不義理・不貞(?)は、確かにマーラーを苦しめたであろう。しかし、すべては因果律の中にあり、それこそが必然だったと考えれば腑に落ちる。当時のマーラーの作品が聴き方によっては支離滅裂であるのは、受け手の課題に過ぎず、別の視点を保てば実に統一感に長けていることがまたよくわかる。

交響曲第7番ホ短調初演直前の、ブルーノ・ワルターに宛てた手紙での内面吐露が痛々しくも赤裸々で、まるでこの交響曲の真意を表現するかのようだ。

当時陥ったあのパニック状態以来、私はひたすら目をそむけ、耳を塞ぐしかなかったのです。—ふたたび自分自身へ到る道を見つけなければならないとすれば、孤独の恐ろしさに、身を委ねるほかはないのです。しかし一体全体、私はまったくのところ謎めいた話し方ばかりしていますね。だって君は私の身に何が起こったのか、ご存じないのですから。想像しておられるような死に対するヒポコンデリー的な畏怖などでは、よもやありませんでした。自分が死ななければならないことなど、最初からわかっていることでしたから。—ともあれ、君にここで何か説明したり、語って聞かせたりするよりは、だってそんなことはいかなる言葉をもってしてもできっこないことだから、ただ一言こう申し上げておきたい、つまり私はただの一瞬にしてこれまでに戦い獲ってきたあらゆる明察と平静とを失ってしまったのです。そして私は無に直面して立ち、人生の終わりになっていまからふたたび初心者として歩行や起立を学ばなければならなくなったのです。
(1908年7月18日付、ブルーノ・ワルター宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P360

生涯を孤独や感情の揺れと闘ってきたマーラーは、形を変え、品を変え、音楽によって自身の内面を吐露した。それは、まさに「いかなる言葉をもってしてもできっこないこと」だった。

オペラ畑を着実に歩んできた無名の(しかし知る人ぞ知る)指揮者が、世界最高峰のオーケストラのシェフになったというニュースは、あの頃、世間を(?)騒がせた。果たして僕もその名前を知らなかった一人だが(意外に僕は疎い)、実演に触れるより以前に、巷間流れる評判を信頼し、(件のオーケストラとは異なれど)リリースされた音盤を聴いてみたところ、ぶっ飛んだ。

僕が今、マーラー音楽の最高峰と信じる交響曲第7番。この晦渋な交響曲が、何と色彩豊かに身に沁みることか。至純、最美、あっという間の70余分!!

・マーラー:交響曲第7番ホ短調(1905)
キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管弦楽団(2018.5.28&29Live)

どの瞬間も抑制されたバランス感覚が見事である。(静かながら酔狂気分に浸る)第3楽章スケルツォを中心にしたシンメトリー的側面が強調された夜の闇は、文字通りマーラーの死に対する畏怖だろう。ことにペトレンコはスケルツォを重視する。すなわち、マーラーの内なる無意識の恐怖をこれでもかというくらい明瞭に力を込めて描くのだ。そしてまた、両端楽章に見られる、一見正反対の音調でありながら実に相似の世界として表現される「同質の世界」。輪廻のうちにあって、生も死も恐れるべきものだとマーラーの魂は知っていた。そして、その恐怖から決して逃れることはできないのだと。
キリル・ペトレンコの演奏は、そのあたりを一層顕著にする。決して解決に至らない解決策こそが、マーラー演奏の鍵だと僕は思う。

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