
ダニエル・ハーディングがウィーン・フィルを指揮したマーラーの交響曲第10番を聴いて、かつて僕は凸凹の法則を連想し、記事を書いた。我ながらあれは見事な論だと今でも思っているが、久しぶりに件の音盤を純粋に聴いてみて、何より音楽の透明感と造形の安定感と静けさに心から快哉を叫んだ。果たしてこの作品は、マーラーの此岸への、執心を伴なった告別の念のこもったものなのかどうなのか、という僕のそれまでの邪推(?)が吹っ飛ぶほどの、もはや魂が彼岸に到達したような美しい音楽の宝庫であることを確信したアルバムだった。
第1楽章アダージョは完璧にコントロールされた、天国での生活を想像した夢の中の音楽だ。また、第2楽章スケルツォは、いかにもマーラー然とした、アイロニックな(今や天国で遊ぶ自身を想像しての)愉悦の音楽だ。しかし、晩年のワーグナー張りの再生論を支持したマーラーらしく、あくまで自身の往く所は煉獄であろうと懺悔する(?)彼自身の心象を顕した、等身大の鏡となる音楽だった。ここでのハーディングの実に緊張感満ちる創造の方法にあらためて僕は感激する。何という自己告白、自己憐憫の表象であることか。
私はごく好調です。ご存知のように、私は孤独を、あたかも酒飲みが酒を嗜むようにこよなく嗜むのです。万人がこれを年に一度は必要とするとすら思っております。そのような一種の煉獄(プルガトリオ)—あるいは場合(によっては)精神の精錬作用—どちらもそのとおりです。
(1910年、カール・モル宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P410
孤独とは薬であるとマーラーという。それこそ自省し、懺悔をするための時間としての孤独。そこから生み出された音楽作品はやはり孤高だといえまいか。
後半2つの楽章での、解決が素晴らしい。
・マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック1976/89補筆完成版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2007.10Live)
マーラー自身が「悪魔が私と共に踊る」と記したとされる第4楽章スケルツォは、煉獄を抜け出しての真の解決の音楽を目指したものの、死によってそれを阻まれた彼の嘆きの歌だろうか(この際標題についてはどうでも良い)。あるいは続く終楽章冒頭の、不気味ながら無心の音調はマーラー自身の現世への悔恨の念であり、妻マーラーへの謝意を表す音楽ではなかったか。孤独を愛したマーラーに対峙したアルマはどれほどの寂しさを抱え込んでいたのだろう。
補筆完成版ながらあらためて素晴らしい音楽だと思う。