
ハインリヒ・ハイネは、ゴローニンの「日本幽囚記」を読み、その洗練された民族性に触発され、「私は日本人になりたい」と言ったといわれる。江戸300年の太平は、遠くドイツの詩人にも影響を与えたのだと思うと、僕たち日本人がかつての栄華、というより質素な、謙虚な、真の意味での慈しみ溢れる開かれた文明を今や取り戻す時代がいよいよ来ているのだと思う。
1797年ドイツのデュッセルドルフに生れて1856年パリで死んだ詩人ハインリッヒ・ハイネの詩が示す浪漫的な魅力は、時代的に言っても音楽家のショパンやベルリオーズ、画家のドラクロワなどと共通なものを持っている。凛々しい遣瀬なさというようなものがある。夢とヴィジョンの世界でハイネの魂は夜啼鶯であり、美と愛情との朗々たる使者であるが、夢の世界を一歩出るとき、この巨大な鶯の声は急に破れて、幻滅や皮肉の調子が「歌」の中へ交り込む。甘美な歌に苦みが加わる。
~片山敏彦訳「ハイネ詩集」(新潮文庫)P3
ショパンやベルリオーズよりも、(奇しくも同年生まれの)シューベルトの音楽にハイネの魂と同様のものを僕は感じるのだ。まさに夢と現の交錯する中で、シューベルトの創造した歌は、あっという間に苦みを付加した歌になる。
寂莫としたその歌は、夭折する作曲家の、慄然とした魂の、孤独の歌である。
ピリスの弾くシューベルトがあまりに哀しく、あまりに孤高で、美しい。
もう9年になる。みなとみらいで聴いたピリスのシューベルトは衝撃だった。作曲家晩年の苦悩が、何と生々しく表現されたことだったか。確かにあのときの言葉にならない静けさはここにはない。しかし、生の喜び、生きる希望すら排除されたような、枯淡の移ろいがここにはある。D784に聴こえる悲しみはもちろんだが、何より「楽興の時」D780全6曲の沈潜する思念の透明さに僕は感激する。
憂いの故に
夜半も眠らず、
真昼もなかば夢み心地に
あてどなくわれはさまよう。
「あした目覚めて」
~同上書P22

時空を超え彷徨うシューベルトの魂よ。
ピリスの演奏には、孤独の歌がある。